コロナ感染者数が「右肩上がり」の違和感

新型コロナウイルスの感染者数は、多少ジグザグ増減しながらも、ここのところおおむね増え続けています。

大阪で200人越えした日に吉村知事は、「(感染者数は)右肩上がりで上がっている」と言いました。

その前には沖縄の玉城知事も、グラフを示しながら「右肩上がりになっている」と説明していました。

新聞でもテレビでも、今日もNHKで、コロナ関連の数字について「右肩上がり」を使っていました。

でも私は、コロナ感染者数という「悪い事」に「右肩上がり」を使うことには、どうしても抵抗があります。

感染者数が「伸びてきましたね」なんて言われると、なんかイヤですよね。それと似た違和感です。

辞書(大辞泉)には、「後になるほど数値が大きくなること。後になるほど状態がよくなること」とあります。

同義の「右上がり」も、「どんどん数値が上がっていくこと。後になるほど状態がよくなること」でした。

用例を見ても、業績とか売上とか成長率とかの「良い事」ばかりが登場します。「悪い事」は見当たりません。

つまりこの表現は、数値が増えることが好ましい事柄に用いるのが普通なのです。

であるなら、「右肩上がり」をわざわざコロナには使わないでほしい。そのような配慮がほしい。

ところで「肩」という言葉は、本来は人や動物の肩ですが、生物以外のモノの上部のかどの部分も指します。

なのでグラフの右上の角を「右肩」と呼び、グラフの右上が上がっていたら「右肩上がり」となるのでしょう。

でも、人を正面から見て、向かって右側の肩が上がっていたら、それは左肩です。左肩上がりです。

グラフの立場に立てば、「向かって右肩上がり」は、「グラフの左肩上がり」じゃないのかと思ったりします。

「肩」という解剖学用語を使うのであれば、左右を間違えないよう願います。私の違和感は、むしろそっちか。

予測不能な展開にドキドキし、思った通りの展開にホッとする

韓流ドラマ『<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-3179.html" target="_blank" title="愛の不時着">愛の不時着</a>』にハマっているという井上荒野さんの雑感風の文章を、今朝の日経で読みました。

この文化欄のエッセイってハズレがないので、仕事前の私の楽しみになっています。

とくに女性作家が書いたものは、適度に軽く淡々とした文体と意外な展開が面白く、私の琴線に触れます。

井上氏は、「無意識に感動する準備をしているところに、感動がちゃんと起爆するのが心地いい」と言います。

無意識でなくても、水戸黄門のような期待を裏切らない展開は、確実に<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-677.html" target="_blank" title="カタルシス">カタルシス</a>を与えてくれますけどね。

そういえば、韓国映画『<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-3052.html" target="_blank" title="パラサイト 半地下の家族">パラサイト 半地下の家族</a>』をネット配信していたので、おととい観てみました。

映画館で観た1回目とは異なり、あの予測不能なドラマの展開を、今回は十分予測できる状態での視聴です。

驚いたことに、ストーリーがわかっていながら観ると今度は、思った通りにコトが運ぶ展開が逆に面白い。

随所に張り巡らされた「伏線」は、最初に登場した時点ですぐに、それが伏線だとわかります。

あれって、あとで重要な役割があるんだよね〜と、誰に言うでもなく、ひとりほくそ笑むのです。

そして伏線が回収されていくたびに、ほら来たと、誰に言うでもなく、納得してニヤけるのです。

1回目の鑑賞では驚いた場面も、2回目の鑑賞ではカタルシスが得られる心地よいシーンとなります。

ストーリー展開に目を奪われず、じっくり映画を楽しもうと思えば、2度見することですよね。

じゃあ3度見だとどうなるんだと、そういうことになるでしょうか。考えときます。

名詞のアクセントの「平板化」には、最後まで抵抗したい人間です

ある水族館がやっと開館するというニュースを聞いてて、「水族館」という言葉のアクセントに驚きました。

なぜならアナウンサーが「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-418.html" target="_blank" title="平板型">平板型</a>」で発音したからです。私の中では絶対に「中高型」なのに。

ここで中高型というのは、「東京都」とか「新幹線」のような、真ん中にアクセントが来ることを言います。

同様に「博物館」も「図書館」も「美術館」も、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1730.html" target="_blank" title="NHKのアクセント辞典">NHKのアクセント辞典</a>では、今のところすべて中高型です。

でも世間では、これらの言葉はかなり平板化が進んでいるような気がします。残念です。

「春休み」や「夏休み」は、まだ中高型ですね。ですよね。でもやがて平板化するでしょう。え、もうしてる?

「ケンタッキー」なんてのも、やがて若者は平板型で言い始めるんでしょうね。え、もうしてる?

じゃあ「洗濯機」とか「冷蔵庫」はどうよ。「養命酒」とか「福禄寿」とか「犬追物」はどうよ。

名詞のアクセントがだんだん平板化する中で、中高型を堅持している言葉は、どこかレトロな感じがしますね。

平板化が進んでいる理由のひとつは、発音にエネルギーを使わないからだという「省エネ」説があります。

あるいは、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-2055.html" target="_blank" title="業界用語">業界用語</a>や<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1326.html" target="_blank" title="若者コトバ">若者コトバ</a>のような、格好付けや仲間意識も、その要因かもしれません。

平板化は時代の流れだとしても、直線的で無味乾燥で無色透明な言葉に変えられていくのは悲しいことです。

その言葉が本来持っていた「起伏」や「味わい」や「彩り」が、失われる気がしてなりません。

すでに私の<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-2928.html" target="_blank" title="平板化ネタ">平板化ネタ</a>も定番化していますが、無味乾燥なブログは避けたいものです。え、もうしてる?

文學界新人賞受賞作『アキちゃん』(三木三奈)読後感

新型コロナ以外の話題はないものかと探したのですが、どうしても旬のネタはコロナ絡みばかり。

こうなれば奥の手は、映画か小説の感想文、ということになります。

ちょうど「文學界新人賞」の受賞作掲載号が出たので、今夜あわてて読んでみました。

三木三奈(みきみな)氏の『アキちゃん』。

「選考会を議論の渦に巻き込んだ “寄り添わない” 小説」だと評されています。(以下、ネタバレあり)

「寄り添わない」と聞くと、お笑いコンビ「ぺこぱ」の右側の人の「ノリツッコまない」を連想しますね。

それはともかく、『アキちゃん』が面白かったかと問われるなら、私の答は「どうなんかなぁ微妙」です。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-2843.html" target="_blank" title="今村夏子氏">今村夏子氏</a>の小説にも似てスラスラ読める平易な文章の中に、「刺さる」文が配置されているのはさすが。

「作品には鮮烈な一言半句を求めるだけだ」という、芥川賞の選考委員だった故開高健氏の言葉の通りです。

一貫した「不機嫌」が本作品の重要な通奏低音ですが、主旋律(テーマ)が私には難しく感じました。

重要な事柄が途中まで故意に隠されている点も、効果的というよりは、私には注意力を失わせる展開でした。

でも高評価している選考委員もいて、となると読み手としては、私もまだまだということなのでしょう。

まさか芥川賞とったりして。ていうか、コロナ騒ぎの中で予定通り7月に芥川賞選考会あるんでしょうかね。

「あさっての方向」とは、具体的にどっち向きなのか?

節分なので「恵方巻き」を、昼休みに流儀に則って黙って一気に食べました。

今年の恵方は「庚(かのえ)」。ほぼ西南西ですが、正確には255度の方向です。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1218.html" target="_blank" title="前に書いた">前に書いた</a>ように、iPhoneのコンパスは「磁北」ではなく「真北」に設定しておく必要があります。

ところで最近、「『おととい』の前の日は、『やのおととい』ですよね?」と尋ねられて、狼狽しました。

『やのおととい』?、たぶん初耳。それに「おとといの前日」と言えば『さきおととい』のポジションのはず。

いやしかし、『やのあさって』だってその意味には地域差があるそうだし、『やのおととい』もありなのか?

確認のために辞書(日国)を引いたら、驚くべきことが記載されていました。

・「あさっての翌日」は、東日本が『やのあさって』、西日本が『しあさって』という東西対立分布がある

・しかし、都区内は例外的に『しあさって』である

・「あさっての翌々日」は、西日本が『ごあさって』、関東は『しあさって』、都区内のみ『やのあさって』

私の場合、どういうわけか都区内の用法に一致します。少なくとも『ごあさって』には承服しかねます。

そういえば「あさっての方向」って、本来の方向からどのぐらいズレているのでしょう。昔からの疑問です。

右斜め60度ぐらいズレているのが私の感覚ですが、そもそも、そのズレ具合に標準値があるのでしょうか。

いやもちろん、「あさっての方向」には比喩的な意味があるってことは、わかってます。

ググったら「山田J太による漫画」だと。知らん。ていうか今日も、拙ブログはあさってなエンディングです。

今日からブログのタイトルを長くすることにした理由

「ブログのタイトルを見ても内容がわかりにくい」というご意見があることは、以前から承知しております。

そもそも内容がまとまっていないブログなので、それを一言で表現するタイトルなど付けようもないのです。

もともとは、敢えて禅問答のような不可解な短い言葉で興味をそそってやろう、というのが<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1129.html" target="_blank" title="私の戦略">私の戦略</a>でした。

がしかし、その作戦はあまり有効ではなく、かえって読む気を失わせる効果しかなかったかもしれません。

実際、世の中のブログを見ていると、概してタイトルが長く説明調で、内容が分かりやすくて親切ですね。

というわけで、今日から宗旨替えです。むしろこれまでの反動で、やたらに長いタイトルにしてみたりします。

問題があるとすれば、パソコン等で閲覧したときに、タイトル一覧部分の改行が多くなることですかね。

スマホでご覧になる方も、不便になるかもしれませんが、そこはご容赦願います。

タイトルって、考えてみたら長い方が楽なんですよね。短いのはむしろ苦労します。

じつは、ブログのタイトルが重複したことが過去にありました。これも短いタイトルの弊害です。

いつも似たようなネタで書いているので、同じタイトルを付けそうになるニアミスなら、日常茶飯事です。

なので投稿する直前にタイトル検索をかけることが、いまや最重要チェック項目になっています。

同じタイトルを付けてしまうリスクを減らすため。それがタイトルを長くすることにした第一の理由です。

「ハチド」と「クド」

インフルエンザは少し下火にも見えますが、まだ油断はできません。それにB型が現れ始めています。

溶連菌感染やリンゴ病とインフルエンザに同時に罹患する方もいて、診断する上でも注意が必要です。

ところで、気温は「36.5度」と言うのに、体温ではたいてい「36度5分」と表現します。

ただしNHKは気温でも「36度5分」と言っており、まるで体温みたいで違和感があると<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-2829.html" target="_blank" title="半年前">半年前</a>に書きました。

そのNHKの放送用語委員会が最近、気温でも「36.5度」という言い方を認めよう、と決定したようです。

いまさら感はありますが、今後は報道番組でも、民放並みに気温を「36.5度」と言う日が来るのでしょうか。

いや、どちらでも可という場合には、NHKはより伝統的な(古くさい)表現を使いたがりますからね。

当然ながら体温の方は、NHKではこれまで通り「36度5分」しか認めないようです。まあ、いいでしょう。

「熱が8度あります」とか「9度あります」などと、とくに高熱の場合には略して言うことがよくありますね。

その「ハチド」や「クド」という響きからは直感的に、単なる数値ではない「高熱感」が伝わってきます。

だから小数点以下が付いた「39.5度」の場合でも、「9度5分(クドゴブ)」と言った方がピンときます。

しかしそれは、昭和生まれの私の感覚であって、もはや若い方には「39.5度」の一択なのかもしれません。

多くの伝統的な表現が、やがて現代的で科学的な表現に置き換わっていくのは時間の問題です。

体温を「9度5分」などと言う人種は、時代と共に消滅していくのでしょう。

NHKでも、基礎体温の「36.59」などの小数点以下第2位までの体温の言い方は、今後の検討課題のようです。

そのような桁数を昔は想定していなかったわけで、伝統的表現が追いつかなくなる一例ですね。

おまかせブログ

考えが<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1560.html" target="_blank" title="煮詰まって">煮詰まって</a>(←誤用)もう頭が回らなくなり、思考が暗礁に乗り上げることがありますよね。

そんな状況を表す、うってつけの言葉を見つけました。「脳座礁」。すみません。病名で遊んじゃダメですね。

でも私の場合、ブログがどうにもまとまらなくなって、夜の11時台にしばしば座礁します。

ついには、まとまりのないまま投稿してしまう夜も(よく)あります。投稿拒否だけはできないタチなのです。

座礁よりも困るのは、漂流です。右を向いても左を見ても、ネタの手がかりすら見いだせない大海原。

フラフラ漂いつつも、0時前になんとかどこかの陸地にたどりつくという、きわどい夜もあります。

しかし陸と思ったのは難破船か、いかだやドラム缶の可能性もありますが、とりあえずしがみつきます。

この程度の文章なんて、適当にキーワード入れたら勝手に作文してくれるアプリも、ありそうな気がします。

あらかじめ過去の拙ブログをAIに学習させておけば、あとは「お題」を与えるだけで書いてくれませんかね。

そのお題すら思いつかない日は、「おまかせ」ボタンをクリックして、AIにすべてお任せしましょう。

なんなら、毎晩自動的にブログを書いて投稿してくれると助かります。私はもはや「読者」です。

でも、さすがに投稿前には、形ばかりの筆者(=私)が、一度目を通しておくべきでしょうかね。

「今日もまた、つまらんなぁ」などとつぶやきつつ、結局そのまま投稿ボタンをクリックするのでしょう。

てな感じで、今夜漂着したのが本稿です。マヨネーズの空きボトル程度のネタにしがみついてます。

ブログ投稿3,000回

当ブログは今日で、通算3,000エントリーとなりました。燦然と輝く投稿数というのは、こういうことです。

ちなみに、最初の1,000回には6年1カ月を要しましたが、次の1,000回は約2年9カ月で達成しました。

お気づきの方もいるかもしれませんが、約2年9カ月というのは1,000日のことです。

したがって、2,001回から今日までの期間も約2年9カ月です。

なにしろ2012年4月16日から今日まで、2,807日連続で投稿していますから、こういうことになります。

さてこの状況を、どのような言葉で表現してみましょうか。

「塵も積もれば山となる」

素直にそんな気持ちです。ただしその「山」という状態に意味はなく、単に「積もったなぁ」という感慨。

「雨垂れ石を穿つ」

主旨は好きな言葉ですが、「雨だれ」に主体性がなく、どちらかと言えば受け身なところがあと一歩です。

「一念岩をも通す」

いえ、それほどの「念」もなく、ただ投稿をやめられないだけ。一種の「中断恐怖症」なのです。

「精神一到何事か成らざらん」

だから、そこまでの強い精神ではないのです。ただ時々「投稿依存症」的な気持ちにはなります。

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」

結果的には、当ブログの連続投稿をいちばん言い当てているかもしれません。ただ、書いて来ただけですけど。

とりあえず、「石の上にも三千回」ですか。

飲みかたの多か

「減量できてますか?」と尋ねると、「いやぁ飲みかたの多かですもんねぇ」という返答。

飲み会が多くてなかなか減量できないのですよ、という言い訳ですが、この時節、まあしょうがないです。

ここで「飲みかた」というのは、飲む方法や作法・流儀の意味ではありません。

熊本の方言で、飲み会(宴会)のことを「飲みかた」と言います。じゃあ、「かた」って何?

日本国語大辞典によれば、「動詞の連用形また動作性の漢語名詞に付いて、それをする意を表わす」とのこと。

これだけだとピンと来ませんが、用例「打ちかたやめ」を見て、少し腑に落ちました。

とは言え、「打ちかた」と「飲みかた」の「かた」がまったく同じ意味には思えません。

「打ちかたやめ」とは射撃をやめさせる際の号令です。つまり「打ちかた」には現在進行形の意味があります。

「飲みかたやめ」と言った場合は、早飲み大会の制限時間が来たときの号令のようなニュアンスがあります。

つまりこの場合の「飲みかた」は、飲むことの進行形を現しており、宴会という意味ではなさそうです。

一方で、今日のテーマの「飲みかた」は、宴会の意味ですから、また別の「かた」があるのでしょう。

いろいろ調べても、しっくりくる答がみつからないので、「飲みかた」の言語学的(?)分析は終了。

それにしても、飲みかた(飲み会)を「外飲み」の意味で言うのであれば、私はそれが極端に減っています。

旅行中を除けば、外のみするのは年に数回以下です。勤務医時代だったら、この時期は大変でしたけどね。