要点をすぐに言わない人に、いちいちイラつかない(自戒)

「文を頭から読み進めたとき、読み返さなくても理解できるのであれば、長さにこだわる必要はありません」

という、先日読んだ某「文章術」の意見には、禿同(←いまどき言わんかな)。

以前、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-165.html" target="_blank" title="ブログ記事を1つの長文で書いた">ブログ記事を1つの長文で書いた</a>こともありましたが、アレは息切れするので書いてて面白苦しかった。

けれども、思ったままにその順番で言葉を書き連ねた文章は、読む側には意外と楽かもしれないと思いました。

と言うのも、大事なことを後回しにして喋る人が時々いて、私は聞いてて少しもどかしい思いをするのです。

とくに若い頃には私は、「できたら要点から先に言ってほしなぁ」と、いつも思っていました。

修飾語はあとでいいから、まず結論をストレートに言ってほしいのです。せっかちなんですね。

でも、優しくて奥ゆかしい人ほど、話がソフトになり、主旨がとらえにくくなりがちなことに気付きました。

なので私も最近は、大事なことを後回しにするのは親切心ゆえだと考えて、イラつかなくなりました(多分)。

「問診」は文字通り「聞くこと」ですが、効果的な問診ができるかどうかは結局、「訊き方」次第ですね。

私は、年上の女性と雑談しながら問診を深めるのが好きですが、しばしば漫才みたいな会話になります。

そのようにして経験豊富な先輩方と世間話をしながら問診する術を、毎日実地訓練させられているわけです。

見かけはシンプルでも、内容はくどいのが好き

「文章術」を指南する本やサイトは無数にありますが、私はなるべく読まないようにしています。

なぜなら、自己流が否定されそうな気がするからですが、今日うっかり、その手の記事を読んでしまいました。

その記事によると、「1文の長さは60文字以内が好ましい」とか。

おおっ。好ましいかどうかはともかく、たまたま当ブログは、原則として1文を50文字以内で書いています。

でもその理由は<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-727.html" target="_blank" title="前にも書いた">前にも書いた</a>ように、ブラウザで表示したときに次の行に折り返されるのがイヤだからです。

ですが無理くり50字におさめる推敲過程は、まるでパズルみたいで、実は私の大好きな作業なのです。

「シンプルに書く」=「なくても意味が通じる言葉を削る」だと、件の記事にあります。

なるほど。半分同感。ですが、シンプルがベストとは限らないのが、文章の面白さだと私は思っています。

たしかに、くどい文章は読みにくいですが、敢えてくどく書くことで、読者をイラつかせることができます。

読者のハートを刺激できれば、それはそれでインパクトのある文章と言えるでしょう。好印象ではなくても。

所詮、文字面だけの表現ですから、どれだけの効果を与えられるかを、最大限に工夫しなければなりません。

シンプルで読みやすい文章なんてのは、あっさりしすぎて記憶に残らないんじゃないかと、心配になるのです。

読んでスッキリ何も残らない「低残渣」ブログよりは、消化しきれず胃がもたれるような文章が私の狙いです。

「積ん読」は、本の熟成作業なり

「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-3258.html" target="_blank" title="積ん読">積ん読</a>」を、よくやります。本を買っても読まずに、そこら辺の本の上に積み重ねてそれっきり、ってやつ。

何冊も積み上げ続けていると、やがて崩れます。上層面だけが滑落したり、大元から倒壊したりもします。

そんな災害が起きたら起きたで、深い層に眠っていた本が発掘できたりして、それも積ん読の醍醐味です。

買った時とはまた異なる、新たな興味が湧いてきて、図らずもその場で読みふけることさえあります。

積ん読に批判的な人がいますが、私は反論したい。そもそも、読書の目的って何ですか、と。

ジャンルにもよりますが、純文学を除けば私の場合たいてい、「好奇心を満たす」ために本を読んでいます。

医学に限らず科学全般、芸術、歴史、生き物、乗り物、食べ物、そのほか森羅万象に、好奇心が入り込みます。

好奇心を満たすことが目的なのであって、「読書」はその手段に過ぎません。

さらに、その好奇心を満たす目的を突き詰めてみると、結局は自己満足なのかもしれません。

本が手元に届いた瞬間から、もう私はワクワクし始め、すでに一定の満足感が得られていることに気づきます。

家を出発するときから旅のワクワクが始まるように、広義の読書の楽しさは、本を手にした時から始まります。

読み進んだらどんな世界が広がり私は何を得られるだろうかと、読まないうちから気分が高揚してきます。

装丁を優しく愛でた後、ページを開き、目次などに目を通し、そして本を閉じます。よし、そのうち読もう。

こうしていよいよ、積ん読が始まるのです。

井の中の蛙、共通語を知らず

手指消毒用エタノールの押売り(国による優先供給スキーム3月分)メールが届きました。懲りませんね。

いつもの「サラヤ ヒビスコールSH ポンプ付1L 1本4,378円(1〜4点ご購入時、税込、配送料込)」です。

どうしてこのような、市場価格よりも格段に高い製品を、優先だと公言(広言・巧言)して売りつけるのか。

最初に設定した価格から変更することが、お役人にはできない事情でもあるんでしょうか。

だいたい、スキームなんてエラそうな言葉遣いがもう、いただけません。計画とか政策とか言えばいいのに。

「スキーム(scheme)」に近い言葉に「スキーマ(schema)」があります。図解とか計画の意味です。

そのドイツ語「シェーマ(Schema)」なら、私は以前からよく使ってきました。

一般的なのかどうかは知りませんが、「シェーマで示します」なんて表現を、医者や研究者は頻繁に使います。

それと似た音がするドイツ語に「シェーレ(Schere)」があります。手術用のハサミのことです。

大学や医局による違いもありますが、私が育った医学部では、この表現が標準でした。

いや、「シェーレ」と正しく言う医者は少数派で、おおかたは「セーレ」と言ってました。

前者が方言っぽく聞こえるので、勝手に「洗練」させた歴史があるのかもしれません。

ところで20年以上前、私と先輩医師が2人で九州を出て、四国の医科大学(当時)に一時赴任したときのこと。

手術中に「セーレ!」と言っても、まったく通じない。この時、セーレが共通語じゃないことを悟りました。

狭い社会にずっと留まっていてはいけない、外に出なければわからないことがあると、思い知った話です。

変異ウイルスのクラスターで先が読めない

埼玉県で4人が新型コロナの変異ウイルスに感染していることが確認され、県の担当者は次の様に述べました。

「いずれも英国滞在歴や英国滞在歴のある患者等との接触は確認されておりません」

このような話し方って、昔から私は気に入らない。(話がそれて申し訳ないです)

たとえば、台風等によって空の便の欠航が相次ぐようなとき、次の様なニュースをよく耳にします。

「欠航または欠航が決まっています」

パッと聞いて意味分からん(と、最初は思う)。「遅延または欠航が決まっています」なら分かるけど。

で、次の瞬間、そうか、すでに欠航したか今後の欠航が決まっている、という意味かと納得するのです。

でもそれなら、「すでに欠航したり、今後の欠航が決まっています」と言えば親切なのに。

冒頭の埼玉県の人も、次の様に言うべきでしょう。

「いずれも英国滞在歴はなく、また英国滞在歴のある患者等との接触も確認されておりません」

かように私は人の発言の枝葉がいちいち気になる性分なので、本来聞くべき内容が耳に入らなかったりします。

さいわい、最近のNHKプラスとか全録レコーダーで、聞き漏らしたニュースを聞き直せるのが救いです。

そうそう、話を元に戻しますが、変異ウイルスはクセモノ。要注意ですね。

せっかく感染者数が減る兆しが見え、ワクチンの接種計画も具体化してきたというのに、油断なりません。

はたして「ゲームチェンジャー」となるのは、ワクチンか(良い意味で)、変異ウイルスか(悪い意味で)。

質問には、まず真っすぐ簡潔に答えましょう

緊急事態宣言下の東京都の小池知事は昨日、次の様に語りました。

「コロナはカレンダーを持っていない。もう一つ持っていないものが時計でして、ですから、午後8時であろうが、お昼間であろうが、不要不急の外出はお控えくださいと、ずーっと前から、言ってます」

これを聞いた人の反応はたぶん、「うまいこと言うねぇ」か、「うまいこと言ってんじゃねぇよ」でしょうね。

私は後者。ていうか、うまいとも思いませんが、小池氏はまた、こうも言いました。

「コロナは県境がどこなのかわからない、というのもポイント」

あなたこそポイントをはずしてませんか、小池さん。いま求められているのは、へたな例え話じゃないでしょ。

小池氏を「アピール上手」だと持ち上げる方もいますが、私はいいかげん辟易しております。

妙なキャッチフレーズや語呂合わせが、わかり易いというよりくどい、見苦しい。なんなら幼稚。

それに輪を掛けてひどいのが、菅首相です。昨日の記者会見の、グダグダな質疑応答にはガッカリしました。

記者からの質問に対して簡潔に即答することがなく、まずムダな前段の説明から入り、しかも的を外してる。

最初に真正面から簡潔に回答し、次いでムダなく捕捉説明をする尾身会長との、違いが際立った会見でした。

クマの駆除で疲れて、目の下にクマができたとする

クマが民家付近に出没する事件が、最近よく報じられます。人的被害も出ているようです。

たまに逃げ去るクマもいますが、多くは、「猟友会によって駆除された」、という結末になります。

しかし私はこの「駆除」という言葉には、いつも違和感を覚えてしまいます。

ゴキブリみたいな害虫に使うのならともかく、クマやイノシシに使うのはいかがなものか。

大動物に「駆除」を使うと、彼ら(動物たち)を虫けら扱いしているような気がして、申し訳ないのです。

たとえ撃ち殺したとしても、「捕獲」という表現はできないものでしょうか。

生死は未確認の、言うなれば心肺停止状態で捕獲し、どこかへ運んでから死亡を確認したという形です。

これならば、「猟友会によって捕獲された」という報じ方ができ、私も聞いてて心が安まります。

ところで、クマのニュースを聞いて気になるのは実は、「駆除」よりもむしろ「クマ」のアクセントです。

アナウンサーが、「クマ」の「マ」が高い、「イヌ」と同じ「尾高型」で発音しているからです。

私はずっと、「ク」にアクセントを置いた、「サル」と同じ「頭高型」で生きてきたのに。

一般に名詞は、頭高型→尾高型、という「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-3189.html" target="_blank" title="平板化">平板化</a>」を来す方向に、アクセントが変化しています。

なので私は、「クマ」も同様に、私が使う頭高型は古くて廃れつつあるアクセントかと思っていました。

ところが「新明解国語辞典 第三版」(1981年)によると、伝統的には「イヌ」と同じ尾高型なんですね。

これが2014年の「日本語アクセント辞典」になると、新しいアクセントとして頭高型も加わります。

NHKの「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1730.html" target="_blank" title="新辞典">新辞典</a>」(2016年)でも、第1アクセントは尾高型、第2アクセントは頭高型となっていました。

従来の尾高型では、目の下にできる「クマ」と同じアクセントです。

言葉の発音は、同音異義語を区別する方向に変化しやすいので、頭高型への変化はリーズナブルです。

私が昔から使っている頭高型は、言うなれば時代を先取りした、将来型アクセントと思ってよいでしょう。

「やさしい日本語」は、日本人どうしの会話でこそ使いたい

文化庁がまとめた「在留支援のためのやさしい日本語ガイドライン」について、NHKが報じていました。

日本で暮らす外国人にしっかりと情報を届けるための、「書き言葉」に焦点をあてた手引き書だそうです。

「やさしい日本語」にするためのポイントがいくつか挙げられていましたが、これは日常会話でも使えます。

外国人相手の文章に限らず、それ以前に、日本人どうしの会話においてこそ十分に考慮すべき点だからです。

(1)伝えたいことを整理して、情報を取捨選択する

(2)3つ以上のことを言うときは箇条書きを使う

(3)簡単な言葉を使う(難しい言葉を使わない)

(4)一文を短くする(一文で言いたいことは1つだけ)

家庭ならともかく、職場等のややあらたまった場所では、意識的に少し堅苦しい「漢語」を使いがちです。

「和語(やまとことば)」のやさしい印象が、いかにも安易で、くだけすぎにも思えてしまうのでしょうか。

漢語のあらたまった語調は医学用語との相性も良く、医療機関では得てして難しい言葉を使いがちです。

「熱はありませんか」と尋ねたいときに、「発熱していませんか」と訊いてしまうことがあります。

「お待ちいただいています」と言うかわりに、「待ち時間が生じております」なんて言ってしまうのです。

私も日頃から、なるべくやさしい言葉遣いをするように意識していますが、なかなか思い通りにはいきません。

それに加えて私の場合、いつも同じ言葉遣いを続ける事に抵抗があって、表現を変えたくなる性分も問題です。

相手は違うのだから、同じ言葉を繰り返してもかまわないのに、それを私の中ではくどく感じてしまいます。

頑張って相手ごとに違う表現で喋ろうとして、でも言葉がスッと出なくて、結果的に噛んでしまうのです。

敬体と常体を混在させたっていい!(ぺこぱ風)

休診日はたいてい、外出もせず(コロナ禍なので)、自宅か職場でデスクワークとか読書などしています。

TVのニュース番組はつけっぱで、昼間なら「ひるおび!」からの「ゴゴスマ」経由の「Nスタ」です。

そのひるおび!では五分五分視していた安倍首相の辞任は、ゴゴスマの冒頭から速報が出て驚きました。

Nスタではずっと安倍首相の会見を中継をしていましたが、CMが入るので結局、NHKに切り替えました。

なお「ミヤネ屋」は見ません。人の言うことをまったく聞かないで番組を進行させる某MCが嫌いだからです。

ひるおび!は、午前10時25分から3時間半の生放送ですが、熊本では「3分クッキング」が割り込んできます。

3分とは名ばかりで10分間の中断です。今日は「ガーリックシュリンプ」が美味しそうでした。

「くまもっと まなびたいム PLUS」という教育番組も、今日はひるおび!の時間帯に放送されていました。

「中3 夏の陣」シリーズだそうで、RKKは国語を担当。今日のテーマは「課題作文」でした。

解説の先生が「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-736.html" target="_blank" title="敬体と常体">敬体と常体</a>を混在させてはならない」と強調していましたが、これにはいつも疑問を感じます。

この原則はケースバイケースで判断すべきコト。常にそうすべきだという教育は、杓子定規で不自由です。

NHKのニュース原稿は敬体ですが、誰かの発言内容を引用するときには、たいてい常体が混在してきます。

放送用語委員会によれば、引用であることをわかりやすくするために、その部分だけ常体を用いるのだとか。

しかし、その引用文章中の最後の文末だけは敬体にする場合もあるようで、臨機応変ということでしょう。

最後だけ敬体に戻して、全体のニュース原稿のトーンを保ち、聞きやすくする効果があるかもしれません。

このような用法を広げるなら、聞き手(読み手)への効果を狙って、敬体・常体の混在はアリだと思います。

だいたい、作文の目的は何。課題作文なんて言ってますけど、何かを人に伝えることこそが文章の目的では?

禍(わざわい)を転じて渦と為す

「コロナ禍」という言葉を、最近はよく目にし、耳にもします。当ブログでも4月から使っています。

「舌禍」とか「災禍」とか「ワクチン禍」などの言葉で使われる「禍」(か、わざわい)を用いた表現です。

この言葉についてNHKは慎重で、7/1付でNHK放送文化研究所のサイトに、次のように書いてありました。

・「書きことば」としては効果的でも、「話しことば」としては、あまりなじまない

・聞き取りにくく、聞き取れたとしても最近使われ始めた新語であるため意味が伝わりにくい

・番組タイトルやニュースのテロップでの使用はあるが、読み原稿やスタジオトークでは使わない

・今後、新語の「コロナ禍」が世の中でどのように使われていくのか見極める必要がある

ネット上では、「コロナ渦」という間違いをしばしば目にします。「禍」のところが「渦」になっています。

前述したNHKのサイトにも、「『コロナ鍋』『コロナ渦』という表記も時々目にする」とありました。

「こうした間違いによって新たな『災い (禍)』を引き起こさないようにご注意」と、斜め上からのご意見も。

ところが、です。7月31日放送の「ニュース9」で、目を疑うような、次の様なテロップが登場しました。

「コロナ渦で失われる仕事 求められる人材とは」

どうしたんですか、NHK。見事に「コロナ渦」じゃないですか。自ら災いを起こしてるじゃないですか。

その数分後、「○コロナ禍 ×コロナ渦」とのテロップを出して、和久田麻由子アナが深々と頭を下げました。

局内のチェック体制の問題よりも、テロップ製作者が「渦」という漢字を使った経緯、その方が気になります。

「渦」という漢字は、「うず」から変換しなければ、なかなか出てきません。うっかり変換ミスは考えにくい。

つまり「コロナ渦」は変換間違いではなく、それで正しいと信じてテロップにしたのだろうと推測します。

人々が巻き込まれている(渦中にある)という意味からすれば、「コロナ渦」もあながち見当違いじゃない。

「コロナ禍」も「コロナ渦」も、少しニュアンスの異なる、それぞれ正しい表現だと思うべきかもしれません。