こどもの発想

大人になると、固定観念が邪魔をして、画一的な思考になりがちです。

だからこどもに接したとき、しばしばその発想の自由さに驚かされます。

最近の例。診察室で、おなかが痛む子を前にして。

私「いちばん痛いときを10としたら、今は何ぐらい? 5ぐらい?」

子「いちばん痛いときでも3ぐらい」

大人の世界で通用する尺度を持ち出して相対評価を試みたら、こどもは、いきなり絶対評価をしたわけです。

小さい頃の娘との会話。

娘「色の中で何がいちばん好き?」

私「水色」

娘「数字の中で何がいちばん好き?」

私「7」

娘「じゃあ、水色と7では、どっちが好き?」

こどもたちのように、カテゴリーだとか、次元だとかに縛られない、自由な発想をしたいものです。

蛇足

「子供」という表記は差別的だそうで、マスコミでは「子ども」か「こども」を使っています。

今日のブログも、「子供」と書いて不快な気持ちになる方に配慮して「こども」にしました。

当の「こども」たちには何の関係もない、大人の論理です。

推敲

「推敲」は、故事成語の中でもあまりにも有名な言葉です。

「僧は推す月下の門」か「僧は敲く月下の門」かで悩んでいて、行列に突っ込んでしまった詩人。

「推す」よりも「敲く」の方が良いとのアドバイスを受けて、そちらを採用した、という話。

「敲く」の方が良い理由は、月下に音を響かせる風情がある、ということだったとされています。

しかし私は、「推」と「敲」を発音したときの音の違いは、選択基準にならなかったのだろうか、と思うのです。

韻文ではしばしば、その発音が重要視されるからです。

実際、私がブログ原稿を推敲するとき、内容以外に発音と外観にも、ちょっとこだわります。

(1)内容の推敲

内容を推敲するのは当たり前なので、詳細は省きます。

(2)発音の推敲。

前述の文で、「内容を推敲するのは当たり前なので、詳細は省略します。」とはしたくないです。

「詳」と「省」がどちらも「しょう」なので、読んでいて「くどい」からです。

同じ単語を繰り返さず、できるだけ同義語に置き換えるのは、推敲の基本だと思いますが、そうする理由も同じ。読んでいて「くどい」からだと思うのです。

(3)外観の推敲

長い文は、あまり好きではありません。パソコン画面で見て、美しくないからです。

行頭に同じ漢字が続くのも避けたい。

一行の文字数をぴったり揃えて長い文章を書いてみるとか、横書きの文章の行頭文字をつなげて縦に読んでみるとひとつの文になるとか、そんな実験的なブログも、いつか書いてみたいです。

看板コラム

新聞には、第一面の下の方にコラムがあります。いわゆる「看板コラム」です。

その時々の話題を、決められた文字数で、どのように「料理」するのか。

それが気になって、各紙のコラムには毎朝必ず目を通します。

天声人語(朝日)、編集手帳(読売)、余録(毎日)、春秋(日経)、産経抄(産経)の5つです。

断っておきますが、文章のお手本としてこれらを無条件に評価しているわけではありません。

良い文章だと思うときもありますが、他山の石とする場合も多々あるからです。

なかでも一番鼻につくのが「前ふり」

冒頭から本題につなげるまでの、得てして文学的な装いの、無駄に長い文章。

アレはいかがなものか。どうかすると、半分以上が前ふりのこともあります。

たとえば、少し前になりますが、4月13日付の朝日と読売。

両紙とも、京都祇園で起きた悲惨なひき逃げ事件をとりあげていましたが、前ふりが同じ。

どちらも与謝野晶子の京都祇園の桜を詠んだ一首から始まり、桜や花見客について述べた後、

「そんな昼下がり、満開の桜の下の、凍り付くような暗転である。」(朝日)

「惨劇が待ち受けていることを誰が予測したろう」(読売)

と展開。加害者の微妙な持病についてはサラッと流し、最後は交通安全でしめくくる。

まるでそっくりなコラムになってしまいました。

とくに前ふりの「かぶり方」は、コラムニストにとっては致命的。大失態と言えるでしょう。

難を逃れたのは他の3紙。それぞれ北朝鮮(毎日・産経)と就活(日経)を題材にしていました。

その3紙が「祇園の事故」をとりあげなかった理由は、だいたい推測できます。

それを書いたら、どうしても与謝野晶子を前ふりにしたくなる。しかしそれでは他紙とかぶるリスクがある。

リスクを回避すべく他の話題にしたのが3紙。リスクを承知でチャレンジしたのが2紙。

大きなイベントや事件があった翌朝は、このような観点で新聞を楽しんでいます。

若者コトバ

「○○のほうになります」とか「○○で大丈夫ですか」などの若者コトバについては、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-22.html" target="_blank" title="以前にも書い">以前にも書いた</a>ことがありますが、嫌いです。

ただしこれらは、決して新しい単語や表現では無く、使い方が間違っているだけです。

では、使い方が間違っている(と思える)表現はすべて嫌いかというと、そうでもありません。

【全然】

「全然OK」とか「全然楽しい」など、「全然+肯定形」は、私も好んで使います。

これは元々正しい用法で、そのことについて最近、新聞やテレビなどが時々取り上げるので、私も安心して使えるようになりました。

この表現がいま市民権を「再」獲得しつつあるのは、若者コトバのおかげかもしれません。

【いい意味で】

味のある婉曲表現に使えます。

「いい意味で失敗作だねぇ」と言えば、「失敗は成功の元」という励ましにもなります。

相手に対して言いにくいことを言うときに、とくに文末に使うと、辛辣な感じが薄れます。

「美味しくないね、いい意味で」など、これから使ってみたい、とぼけた表現です。

【ある意味】

使い方によっては、否定的ニュアンスを出すこともできますが、完全否定でもない。

「ある意味勉強中」ならば、実態としては「ほとんど」勉強していないのだけれど、勉強しようという気持ちだけはある感じ。

【微妙】

「少しだけ」とか「なんとも言えない」という意味のほかに、「どうでもいい」というニュアンスもあります。

このブログ面白いですか、と尋ねたとき、いちばん返ってきそうなコトバです。

芥川賞

ブログという一応の執筆活動を行っている私としては、一定の評価を受けた文章を手本にして研鑽を積む必要があると考えて昨年芥川賞を受賞した西村賢太著の「苦役列車」を読んでみたところ、思いの外引きつけられたのはお世辞にも上品とは言えないその内容ではなく句点( 。)の少ないその文体であり、これまでに私が学会や論文などで使う文章の基本と考えていた簡潔明瞭で短い文をヨシとすることが学術論文や実用書ではそうであったとしてもいわゆる文学作品においては当てはまらず、むしろ句点が少ないことによってひたすら読み進むほかは無い状況に読者を追い込み作品世界にのめり込ませる手法はさすがと感じ入り、試しに今回このような句点はおろか読点も少ない長文ブログに挑戦してみたのだけども意外にもどんどん筆が進み、書きながら多少の呼吸苦を感じながらも気持ちを一気に放出させるにはこの文体もいいなと思いました。 

ところで、今回受賞した田中慎弥氏も、西村賢太氏に匹敵するぐらいの「くせ者」ですね。

数年前のある日、暇にまかせて国語辞典を読んでいたら(見ていたら、というよりも)、「痔」が「ぢ」のところに出ていないことに気がつきました。

「ぢ」ではなくて「じ」だったんですね。長い間ヒサヤ大黒堂にだまされていました。

当然、イボ痔は「いぼじ」であり、キレ痔は「きれじ」です。なんかリアリティーがありませんね。

そんなことを思いながら辞書を読み進むうちに、驚愕の事実に気づきました。

「ぢ」で始まる日本語が、何ひとつ存在しないのです。

地下鉄は「ちかてつ」なのに地下足袋は「じかたび」、地球「ちきゅう」が震えても「じしん」であって「ぢしん」ではないのです。

語源に関係なく、「ぢ」は徹底的に「じ」に置き換えられ、同様に「づ」も粛清されて「ず」になってしまいました。

調べてみると、昭和31年に国語審議会で決めたようです。審議会の詳しい内容は文化庁のHPで読めます。

ところで最近あるウェブ辞典をみたら、「づ」で始まる名詞が2つだけありました。

「づけ(漬け)」と「づら(カツラ)」。

残念ながらいずれもまだ俗語に近い言葉です。標準語として国語審議会に認知されたら、「ずけ」「ずら」になるのでしょうか。

電磁式カタパルト

「カタパルト」という言葉の響きが好きです。

映画「グラディエーター」冒頭の戦闘シーンで、ローマ軍が敵のゲルマン人に向かって次々と火の玉を打ち込んだ、あのときの攻撃装置が、カタパルト(投石機)の元々の意味でしょう。

しかし今、カタパルトと言えば、空母から戦闘機が急加速して飛び立つときの、あの「射出機」のことです。

現在のものは、蒸気圧を使った方式です。甲板から蒸気が漏れ出ているのをよく見かけます(映画などで)。

このたび米海軍で「電磁式」カタパルトが導入されたそうです。

蒸気機関車が一足飛びにリニアモーターカーになったわけです。

途中に「電動式」がなかったのは、なぜなのか。加速力が足りなかったのでしょうか。

気になることは、「カタパルト」に当て字はあるのか。ググっても見つからないので、考えてみました。

「型破路筒」ロケットみたいな発射を連想します。

「片波浪途」波頭スレスレに飛び立つ戦闘機が目に浮かびます。

「肩貼塗」 サロンパスやアンメルツのこと。

精神科医の文筆家

北杜夫の訃報を聞き、そういえば学生時代によく読んだなぁと懐かしく思いました。

斉藤茂太はそのお兄さんですが、これも結構面白かった。

その2人以上に好きだったのが、なだいなだ。北杜夫とは医局の同僚だったようです。

3人とも精神科医ですが、どうも精神科医が文章を書くと、何か独特の面白さがあります。

ほかに精神科医の文筆家と言えば・・・

帚木蓬生。大学の先輩でもありますが、恥ずかしながらまだ、その作品を読んだことがありません。エッセイではなく本格的な小説なので、まとまった時間ができたら、次に読みたい作家です。

和田秀樹は私と同い年。面白い文を書く人ではなさそう。

ほかにもググると何人か出てきますが、よく知らない人ばかり。

なだいなだ氏が、最近こんなこと書いていました。

電力会社のなかで原発依存度がいちばん低い、中部電力についてのコメント:

「住民の反対で、原発計画が挫折したため、他の電力会社に遅れをとったと見られてきたが、回れ右したら、トップに立つことになった。」

「回れ右したらトップ」

座右の銘にしたいと思いました。

三権分立

ジョブズ氏関連の報道を見ようと、昨夜はNHKと民放2局のニュース番組をくまなく見ました。

どの番組も、ジョブズを差し置いて、トップニュースは小沢一郎氏の初公判関連でした。

おかげで小沢氏の会見を3回も見る羽目になりました。

その中で、あのふてぶてしい小沢氏が、記者の質問にキレて、こう言いました。

「じゃあ、君は三権分立をどう考えているの?(中略)もうちょっとよく勉強してから質問してください」

これを見て、福田元首相を思い出しました。辞任会見で記者にキレて言った、あの言葉です。

「あなたとは違うんです」

この捨てゼリフで、福田氏の人気がますます下がったのは言うまでもないですが、一方で小沢氏は今以上人気を下げる余地もなく、安心して何でも言えそうです。

で、私が気になったのが、「三権分立」です。

小沢氏はこれを「さんけんぶんりゅう」と言いました。

調べてみると、法律用語では「ぶんりつ」ではなく「ぶんりゅう」を使うそうですね。今日初めて知りました。

三権分立という言葉は、学校で憲法について習うときに出てきます。

ではどうして学校では、「さんけんぶんりゅう」という「法律用語」の読み方で教えないのか。

歴史の授業では、大仏建立を「だいぶつこんりゅう」という「仏教用語」の読み方で教えるのに。

「分立」を単独で用いるときは「ぶんりつ」と読んだとしても、「三権分立」に限っては「ぶんりゅう」と読ませた方が、特別な感じがしていいと思うのですが。

再生可能エネルギー

菅首相退陣の最終条件と言えば「再生可能エネルギー特別措置法案」

私がこの法案にこだわる理由は、過去の<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-110.html" target="_blank" title="ブログ">ブログ</a>にも述べてきた通りです。

さて、その関連のニュース報道を見ていて、以前から気になっていることがあります。

「再生可能エネルギー」と「再生エネルギー」という言葉が混在しているのです。

「再生可能エネルギー Recyclable energy」とは、太陽光のように、元々のエネルギー量が莫大なので、人間がいくら使っても元の量に戻る(再生可能)エネルギーのことです。

一方で「再生エネルギー Recycled energy」とは、再生されたエネルギーという意味で、「再生紙」などと同じ表現です。

両者はまったく意味が異なるのに、これらを混同して表記しているメディアが意外と多いことに驚きます。

たとえば熊日新聞は、引用文の中には「再生可能エネルギー」も出てきますが、本文ではもっぱら「再生エネルギー」。

熊日新聞社編集局政経部に電話で問い合わせると、

「長いので省略しているのです」との言い訳。

たった2文字を省略? たとえそうだとしても「可能」を省くと意味が変わるのでは? と尋ねると、

「共同通信社から配信された記事を使っておりますので、熊日の判断で用語を変えるわけにはいかないのです」と。

そこで共同通信社編集局にメールで問い合わせみましたが、返答なし。

ところがその数日後、私のメールには何の返信も無いまま、熊日紙面上の表記が「再生可能エネルギー」に変わっていました。

こういう対応って、イヤですね。