too〜to〜構文

「Appleは、自社製品より優れた製品をApp Storeで公開するにはあまりにも自尊心が高すぎる」

iOSがGoogle Mapsを承認するかどうかについての、CNETの翻訳記事を読んでいて出くわした一文です。

これは「too〜to〜構文」に違いない。そこでオリジナルを当たってみると、確かに、

“ it is simply too proud to let a superior product into its store. ”(ここでitはAppleのこと)

やはり「too〜to〜構文」でした。問題はその訳し方です。2通り考えられます。

(1)自尊心が高すぎて公開できない

(2)公開するには自尊心が高すぎる

学校ではおもに(1)で習いました。ところが翻訳記事は(2)。そして(2)の方がしっくりきます。

(1)では「公開できない」ことに、(2)では「自尊心が高い」ことに重点を置いているように感じます。

おそらく原文でも、“too proud”(Appleの自尊心が高いこと)を強調したいのだと思います。

実際、AppleがGoogle Mapsを公開する可能性は残っています。この記事の論点もそこでした。

英語では、大事なことが初めに来ます。反対に日本語では、大事なことが最後に来ます。

たしかに英文を読んだり、とくに聞くときにおいては、英語の語順で理解することが大事かもしれません。

しかし「翻訳文」においては、英語的な語順を守ると、強調すべき点がずれてしまうような気がします。

だから(1)よりは(2)の方がいいと思うのです。

言葉遊び

ダジャレだとか、言葉遊びが好きです。

最近私の琴線に触れたフレーズをいつくか挙げてみましょう。

「キンドルが開けたパンドラ」

10/18付日経の見出し。良い感じの韻の踏み方です。作った人のしたり顔が目に浮かびます。

Amazonが繰り出したキンドルが、日本の書籍販売市場、さらには商習慣をも激変させそうだという意味。

「因果関係ではなく前後関係」

ワクチン接種後の死亡例があるとすぐに、その原因がワクチンそのものであるかのように報道されがちです。

あくまでも「接種後」というタイミングで起きた出来事であると、まずは客観的に報じてもらいたい。

オリジナルは不明ですが、誰かが言い出したフレーズです。韻も絶妙。時々使いたい。

「シンドラーのリフト」

死亡事故なので、あまり茶化して書くのも不謹慎ですが、この会社、なにか問題があるのでは?

私自身が思いついたフレーズです。でもググってみたら、たくさんヒットしました。

みなさん、同じこと考えてるんですね。AERAの一行コピーにも出てきそう。

漢字小話

漢字学者白川静氏の学説による「漢字の成り立ち」は、読んでも読んでも面白いですね。

例えば「人」という字は、立っている姿を横から見た形とのことだそうです。

だから「人という字は人と人が支え合ってできている」という金八先生の話は、間違いと言われています。

しかし、私はそうは思いません。

金八先生が伝えたかったのは、漢字学の学術的解説ではなく、たとえ話を用いた人生訓だからです。

つい最近も、漢字にまつわる「ちょっといい話」に出会いました。

コッシー・D・レンさんという人の、<a href="http://ameblo.jp/ko2c2112/entry-11334610281.html" target="_blank" title="8/22のブログ">8/22のブログ</a>を一部抜粋してご紹介します。

 誰でも口から プラスのことも マイナスのことも吐く。

 だから【吐】という字は 口と+と−で出来ている。

 マイナスのことを 言わなくなると−が消えて、 【叶】という字になる。

いい話じゃないですか。

もちろん学問とは関係ありません。

大事なのは、伝えたいことが、気の利いた「小話」に仕上がっているかどうかです。

ながら執筆

「ブログをひとつ書くのに、どれぐらい時間がかかりますか」と、よく質問されます。

「平均で2,3日でしょうか」わざと、そう答えたりします。

「えっ、それじゃあ毎日は書けないでしょう」と、つっこんでもらうためです。

もちろんこれは、着想してから完成するまでの時間が平均2,3日ぐらい、という意味です。

その間ずっと書き続けているわけではありません。仕事もしてますし。

いくつかの書きかけのブログがあって、その推敲が同時進行しています。

あるいはホットな話題の場合は、思いついたその日のうちに掲載することも、しばしばあります。

実際の執筆は、書斎にこもって行うような集中作業ではありません。

たいていは、別のことをしながら書いてます。言ってみれば「ながら執筆」です。

TVを見ながら、本を読みながら、あるいはその両方をしながら、なんてことも多いです。

夕食中も例外ではありません。

口にモノを入れて、咀嚼している間は箸を置き、手がフリーになるので、ノートパソコンに触ります。

まったく行儀が悪いですが、時間の節約のためにはやむを得ません。モグモグしながら書いています。

どうしても咀嚼時間が長くなるので、健康のためにもきっと良いはず(言い訳)。

遺憾の意

韓国の大統領は、竹島訪問に次いで、天皇に対しても問題のある発言をしました。

これに対して野田首相が述べた言葉が「遺憾である」。

何ですか、この発言。弱い。弱すぎる。もっと激しく怒らないと。

だいたいこの「遺憾」という言葉を使うのが間違っているのです。

「残念」という意味ですが、怒ったときにも、怒られたときにも使う、実に妙な表現です。

「もう許さない」と言わずに「遺憾である」と言って、あからさまに怒らない。

「ごめんなさい」と言わずに「遺憾です」と言って、ちゃんと謝りもしない。

まるで他人事のようです。

和を重んじる日本人が、自己主張を押し殺した結果なのでしょうか。

政治家や役人は、こんな言葉遣いばかりしているものだから、いざ外国を怒ろうとしても、迫力がない。

もう「遺憾」の使用をやめませんか。

「遺憾」禁止。使ってはイカン。

毎日書くこと

ブログを毎日書くのはいかがなものか、とのご指摘を、たまに頂戴します。

無理して書くと、文章の質が落ちるのではないか、とのご意見です。

でも、たまに書いて、しかもつまらなかったら、それこそ目も当てられません。

更新の間隔があけばあくほど、どんどん敷居が高くなって、ますます書けなくなってしまいます。

毎日書けば、それほどの文章ではなくても、まあ毎日書いてるからね、と許してもらえそうな気がします。

更新が不定期だと、安定的読者(いるのなら)を失望させることになります。

長期間更新されなければ、読者のブックマークからも(登録してあるのなら)消えてしまうでしょう。

1回穴を開けると、やがて2日、3日、1週間、1カ月とズルズル穴を開けるのが平気になってしまいます。

もともと根気強い性格ではないので、自分を律するために、毎日のブログ更新を課題にしたわけです。

ネタが無くても何か書く。書くために考えたり、調べ物をしたり、それはそれなりに勉強になります。

休日にはしばしば、近所の紀伊國屋書店に行きます。買うのは新刊本とパソコン雑誌や科学雑誌など。

新聞の社説精読の苦行も続けています。もちろん全国紙5紙です。1紙だとイデオロギーが偏るので。

継続は力なり。

ていうか、何の力になるのやら。

安部公房

芥川賞と直木賞の受賞作が、本日決まりました。受賞者はいずれも、30代の女性です。

受賞作が掲載される、来月あたりの文藝春秋で読む予定です。時間があれば。

その芥川賞の上をいくものが、ノーベル文学賞です。日本人はこれまでに2人だけ、授賞しています。

最近報道されたところでは、安部公房はノーベル賞受賞寸前だったそうですね。

急死しなければ授賞しただろうと、ノーベル文学賞の元選考委員長が語ったとか。

安部公房は、私が学生時代にいちばんよく読んだ小説家です。

読んだことのない人が思わず読みたくなるように、作品を「一行ずつ」紹介してみます。

『壁-S・カルマ氏の犯罪』(芥川賞授賞作)

目覚めると、自分の名前を思い出せない。いわれのない窃盗罪に問われ、妙な裁判にかけられて・・・

『カンガルー・ノート』

目覚めると、スネにカイワレ大根が生えていた。病院では温泉治療を勧めらるが・・・

『人間そっくり』

ラジオ番組の脚本家の自宅に、自分は火星人だと言い張る男が訪れる。

『闖入者』

見知らぬ大家族に部屋を占領されてしまう。抗議しても多数決で否決され・・・

『水中都市』

父親と名乗る男が突然現れ、奇妙な魚に変形し・・・

なんかTV番組の「世にも奇妙な物語」みたいな展開が多いですが、決して薄っぺらな話ではありません。

作品の深みと重苦しさは、まさにノーベル賞級だと思います。

アリとキリギリス

少し前に産経新聞のコラムが、「アリとキリギリス」の話をとり上げていました。

このイソップ物語の結末が、原典と日本語版で異なるというのです。

夏の間遊びほうけていたキリギリスが、冬になってアリに助けを求めたとき、アリはどうしたか。

原典では、キリギリスを助けないのに、日本語版では、アリはキリギリスを助けます。

私がこどもの頃に読んだ本も、そんな結末でした。

ところがそれは、高度成長期の話とのこと。最近では、日本語版でもキリギリスを助けないそうです。

日本人の気質が変わってきたのでしょうか。

このコラムを読んで「情けは人のためならず」ということわざを思い出しました。

原義は「情けをかければ、いつか自分にも返ってくる」という、温情ある考え方。

しかし「情けをかけたら、その人のためにはならない」という、厳しい解釈が最近広がっているそうです。

もちろん後者は誤りですが、文化庁の調査では、後者で理解している日本人の方がむしろ多いとのこと。

古き良き日本人の気質が失われつつあるのか、余裕がなくなってギスギスしてきたのか。

そう思えば私自身も、もっと寛大にならなければと、反省してばかりの毎日です。

イソップ物語でいうなら、北風よりも太陽でありたい。

五十にして論語

「論語なう」という本(牧野武文著)を、立ち読みしていたら止まらなくなったので、買いました。

論語とは、孔子と弟子たちの問答などを記録したものであり、孔子の教えはやがて儒教となります。

古代中国史が好きな私ですが、論語だけはどうも、昔から毛嫌いしていました。

しかし、今日あらためて読んでみると、むしろ現代人にこそ必要な「教え」がそこにありました。

この本の面白さは、極端に平易な、ツイッター風の「なう語訳」で、論語を訳してあることです。

もともとは、著者がツイッターに投稿して反響を呼んだ内容だそうです。

例をあげてみます。

(原文)子曰く、巧言令色、鮮(すくな)し仁。

(訳文)弁舌さわやかで、いつもにこにこスマイル。こういうやつって、なんかうさんくさいよね。

こんな感じで、100ぐらいの「論語」が「なう語訳」され、それに簡潔で真面目な解説が付いています。

かつて古典の解説書や訳本といえば、学者や作家が書いた、いかにも堅苦しい教科書的なものでした。

ところが、ブログなどネット上の個人レベルの著作活動が活発になって、様相が変わってきました。

個人が好きなことを、自由に「研究発表」し、さらには「私製教科書」まで作るようになりました。

学術的な信用度には問題が残りますが、好きで楽しく書いているので、読んでいて面白いものが多いです。

教育現場でも、こういったネット素材を副読本として、どんどん利用すればよいと思います。

現に私は「論語なう」を読んで、論語を少し勉強してみたい気持ちになりました。

五十にして天命を知る。(やっぱりちょっと大げさかな)

執筆環境

ブログひとつ書くにしても、快適な執筆環境を追求したいものです。

道具

Mac。私の場合どうしても、Windowsでは想像力がかきたてられないのです。

適度なキーストロークが大事。なのでiPadで書く気にはなれません。

文字入力

ローマ字入力って、日本語を入力する方法として最適なんでしょうかね、いまさらですが。

かな入力をマスターすれば、その方が便利なのでは? と考えたりもしますが挑戦はしません。

ソフトウェア

純粋に文章だけ書くのに、ワープロソフトを使う気にはなりません。ムダが多すぎます。

使っているのはデータベースソフト。短い文章を何編も書くのに最適です。

原稿ファイルはひとつ。ひとつの文章が1レコード。

これだと、ネタのダブリも検索しやすいです。

ネット環境

情報収集とクラウド利用のためには必須。

それにしても、最近USBメモリとかポータブルHDDとかを使わなくなりましたね。

こんなにクラウドに依存していていいのか、ときどき不安にもなります。

上げ膳据え膳

自宅でもこれに近いですが、度を超すと家人との軋轢が生じます。

いつかやりたいと思っているのは、晴れた日に庭の芝生でビール飲みながら執筆。

スタバにMacBookAirを持って行って執筆するのもオシャレ。MacBookAir持ってないけど。

小説家みたいに旅館に逗留し、朝の散策の後で書く、なんていうのが理想。

フィレンツェとかバルセロナとかに長期滞在するのもいい(話ふくらませすぎ)。