連濁

たかじんの番組に出演していた韓国人女性の発言を聞いていて、面白いことに気づきました。

「その概念が」と彼女が言ったときは、「ソノガイネンガ」と発音していたのに、

「その、概念が」と区切ったときには、「ソノ、カイネンガ」と言ったのです。

「韓国語では、語中で濁る言葉が語頭にくると濁らない」という法則を思い出しました。

韓国ドラマ「冬のソナタ」で、ペ・ヨンジュン演じる主人公の男性の名前には、2種類の発音がありました。

フルネームだと「カン・ジュンサン」なのですが、名前だけ呼ばれるときは「チュンサン」になるのです。

「宮廷女官チャングムの誓い」でも、チャングムをフルネームで言う時の発音は「ソ・ジャングム」でした。

細かく言えば、濁る・濁らないという表現は適切ではないらしいですが、前述のような規則があるようです。

ところが考えてみると、日本語でも、複合語では似たようなことが起きます。「川」と「小川」とか。

こういうのを「連濁」というそうですね。調べてみるとなかなか面白い、奥の深いテーマです。

さらに興味深いことに、大和言葉(日本古来の言葉)では、原則として語頭に濁音が来ないというのです。

これって、韓国人の発音と同じじゃないですか。不思議です。少し研究してみなければなりません。

並列読書術

「本は10冊同時に読め!」(成毛眞著)を読みました。

他の本と「同時に」読むつもりでしたが、結局、一気読みしました。

気がつけば、情報源がネットやテレビに偏りがちな今、ちゃんとした本を読む機会が減ってしまいました。

成毛氏が奨める「超並列読書術」は、とてもユニーク。飽きっぽい私にはピタリとはまりました。

その方法とは、自分が移動するあちこちの場所にそれぞれ本を置き、その場ではその本を読む、ということ。

リビング、寝室、トイレ、職場、通勤カバンの中などに、バラバラのジャンルの本を配置するのです。

さっそく実践しようと思ったのですが、家人から、トイレはダメとのお達しあり。

成毛氏は日本マイクロソフトの元社長ですが、書きぶりには極論が多く、我田引水も鼻につきます。

しかし彼の理論にはうなづける部分も多いので、私の感想も加えて、いくつか挙げてみます。

「本は最後まで読む必要はない」「最後まで読む価値のある本はそれほど多くない」 ですよね。

「1冊の本を読み通す場合(中略)ダラダラと義務感と惰性で読み続けてしまう」 グサッ。

「テレビの時間を半分に減らせ」 おっしゃる通り。あと、ネットも。

なだいなだ

なだいなだ氏が亡くなりました。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-152.html" target="_blank" title="1年半前">1年半前</a>に、北杜夫氏の訃報について書いたとき、なだいなだ氏を話題にしたことがありました。

彼のブログの中に出てきた「回れ右したらトップ」というフレーズは、私の座右の銘(候補)なのです。

「なだいなだ」というのは、もちろんペンネームです。

スペイン語で「何も無い と 何も無い」の意味だということは、よく知られています。

しかしそのスペイン語のスペルが、“nada y nada” であることは、今日になって私は知りました。

どうやら、“y” というのは “and” の意味だな、とわかります。フランス語の “et” みたいなもんですね。

とすると、“nada” はなんだろう。だいたい予測はつきますが、念のため辞書を引いてみましょう。

自宅に「西和・和西辞典」なんて持っているはずもないですが、今の時代、ネット辞書があります。

「excite翻訳」で “nada” を英訳してみたところ、“anything” と出ました。えっ、“nothing” じゃないの?

ためしに “nothing” を「西訳」すると、“nada” と出ます。でも “nada” の訳語は “anything” なのです。

それじゃあ “anything” を西訳するとどうなるのか。これが “algo” なんですね。まったくどうなってんの。

でもって “algo” を英訳すると、こんどは “something” だそうです。やられた。

結局 “nada y nada” は “something and anything” と言えなくもない。それもまた面白い解釈でしょう。

なだいなだ氏が亡くなった6月6日の未明、彼は「きつい一日」というタイトルのブログを書いています。

作家であり医師である彼は、最期のその日まで、自分の病状を書き続けました。まさにブロガーの鏡です。

ご冥福をお祈りいたします。

同音異義語

日本語は「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-221.html" target="_blank" title="同音異義語">同音異義語</a>」が多いという特徴があります。

文字を見ればすぐ区別がつきますが、話し言葉では文脈によって判断しなければなりません。

パソコンなどの日本語変換システムも、人間と同じように、文脈で判断しているようです。

入力のしかたによっては、かなり正確に、同音異義語を変換してくれます。

たとえばこんな感じ。

「きしゃのきしゃがきしゃできしゃした」→「貴社の記者が汽車で帰社した」

どのような日本語変換システムを使っても、このフレーズの漢字変換はほぼ完璧でしょう。

変換の正確さを調べるときによく使う「定型文」なので、こっそり辞書登録させてある、というウワサです。

「かしつしたのはかしつでした」→「加湿したのは過失でした」

こんなにムシムシするのに、なんで加湿したんだ、除湿だろう、と怒られたときのセリフ(のつもり)。

「おしょくじけんをくばったおしょくじけんがおきた」→「お食事券を配った汚職事件が起きた」

「起きた」を加えなければ誤変換してしまいます。やはり文脈が大事です。

ここに挙げたような、長ったらしいフレーズを一発で変換するようなことは、普通しませんけどね。

笑える誤変換に「不意打ち」されると、ちょっと楽しくなりますね。同音異義語の多い日本語の面白さです。

そんな時、私はわざと何度も誤変換を再現してみたりするので、辞書が誤った学習をしてしまうのが問題。

ぼたもち

「おはぎ」と「ぼたもち」の違いについて、今朝の「めざましテレビ」を見て知りました。

地方によって呼び方が異なるのかな、ぐらいの認識でしたが、そうではありませんでしたね。

春は「牡丹餅(ぼたもち)」、秋は「御萩(おはぎ)」と、季節によって言い換えるのが正解でした。

少し調べてみると、春と秋だけでなく、夏は「夜船」、冬は「北窓」と呼ぶこともあるそうです。

これはさすがに、こじつけ(後付け)でしょう。

お彼岸に食べるこの餅は、仏教との関係も深く、語源をサンスクリット語に求める考え方もあるそうです。

こっちの方が神秘的で面白そう。いつか調べて報告します(予定)。

ぼたもちで思い出すのは、中学校の時に習った「宇治拾遺物語」の中の一話。

「児の掻餅するに空寝したる事(ちごのかいもちひするにそらねしたること)」という題名の話がそれです。

ご存じの方も多いでしょうが、私の好きな話なので、かいつまんで書いてみますと・・・

比叡山延暦寺で僧たちが、「さあ、ぼたもちを作ろう」と言ってるのを、寺の子が耳にして期待します。

寝たふりして待ってると、できあがったようで、ある僧が起こしに来ます。「もしもし、起きなされ」と。

すぐ返事したのでは体裁が悪いので、寝たふりを続けたところ、僧たちは「寝かしておこう」と言い始める。

聞いているとムシャムシャと食べる音が聞こえ、我慢しきれず「はい」と間抜けに起き上がり、笑われます。

宇治拾遺物語には、こんなどうでもいい小話や、やや下品な説話が盛りだくさんで、私は好きです。

365日無休

「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-313.html" target="_blank" title="継続は力なり">継続は力なり</a>」と書いたのは、もう8カ月も前のこと。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1.html" target="_blank" title="5年前">5年前</a>に書き始めた当ブログ、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-194.html" target="_blank" title="昨年4月16日">昨年4月16日</a>からは休まず投稿を続け、本日で365日連続更新となりました。

ブログの執筆は毎晩の私の日課であり、ほとんど日記のようなものです。

日付が変わるまでに投稿しなければ記録が途切れるので、毎晩0時が締切です。

なので夜遅くに帰宅した日は、時間が無くてあせります。

休診日は余裕があるはずですが、のんびりしていると夜遅くなってしまい、やっぱりあせります。

深夜23時50分を過ぎてようやく投稿したことも、何度もあります。

一般にブログと言えば、食べた物とか、行った所とか、会った人とかの、写真を掲載したものが多いです。

しかし、私のブログには写真がありません。

文字ばかりでは殺風景じゃないか、というご意見を頂戴したこともありますが、写真は載せません。

だって考えてみて下さい。

文章を書くだけでも毎晩苦労しているのに、そのうえ写真の課題まで背負いたくないですよ。

文章の一行目

「文は一行目から書かなくていい」(藤原智美著)という本を、タイトルにそそられて買いました。

この本のタイトルで「文」となっているところは「文章」とすべきではないのか、最初そう思いました。

しかし考えてみると、文章は必ずひとつの文から書き始めるのであり、その時点でそれは文章の一行目です。

つまり、一行目から書かない文章など、あり得ないということに気付きました。だから「文」でいいのです。

ま、枝葉末節ですけど。

ブログの一行目には、何か「フレッシュな語句」を提示したいと、いつも思って書いています。

しかしそれをあれこれ考えていたら、次に進めません。だから一行目は、通常あと回しにしています。

文章全体のバランスを考えて、最後に一行目を書いているのかといえば、それは違います。

私のブログに、全体のバランスなど存在しないからです。

新聞のコラムのような、キザで鼻につく「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-218.html" target="_blank" title="前ふり">前ふり</a>」も、なるべく書かないようにしています。

お前のブログにもときどき、つまらん前ふりがあるじゃないか、と反論する方もいるでしょう。

たしかに、文章の冒頭部が、後半の内容とは無関係の場合も、しばしばあります。

しかしこれは、前ふりではありません。私の場合はただ、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-401.html" target="_blank" title="テーマがどんどんズレて">テーマがどんどんズレて</a>いるだけなのです。

百人一首

私にとっての百人一首は、カルタの一種でも古典でもなく「なんとなく覚えているフレーズ集」です。

高校の時、古文の宿題で、百首の読みと意味と歌人の名前を全部、暗記させられました。

こどもの記憶力を高める訓練法としても、小倉百人一首の暗唱はよく勧められているようです。

暗唱しやすいフレーズと、挑戦しがいのある、ちょうどいい分量なのでしょう。

文字数でいえば「五・七・五・七・七」の三十一文字かける百で、約3,100文字です。

「約」と書いたのは、一部の歌には字余りがあるからです。

厳密な文字数を数えようと思い、字余りの歌を調べてみると、これが思いのほか奥が深い、面白い。

字余りの句にはたいてい「単独母音」が含まれていて、それによって母音が連続しているようです。

たとえば小野小町の歌でいうと、「花の色は移りにけりないたづらに」の「色」の「い」が単独母音です。

古い日本語では、母音が重なると、発音するときには一方が脱落しやすいらしいです。

なので「はなのいろは」は「はなにろは」と発音したのかもしれません(想像)。

文字に書くと字余りの句でも、実際には「音余り」にはなっていなかったのかもしれません。

こういうのって、もっと掘り下げて勉強したら面白そうですね。

五郎八

熊本には、有名な高級料理店「五郎八」と、庶民的料理店「五郎八」があります。

同じ「五郎八」でも、前者は「ごろはち」と読み、後者は「いろは」と読みます。面白いですね。

と、書きましたが、これが放送番組などで読まれる原稿となると、アナウンサーも困ってしまうでしょう。

文章中の「五郎八」を、実際のところ何と読んだら良いのか、わからないからです。

放送するためには、原稿を修正しなければなりません。

しかし、たとえ「黙読」する場合であっても、不都合はあります。頭の中では「音読」しているからです。

一般に、文章を読んでいて、難読字句に出くわしたとき、皆さんはどのように対応しているのでしょう。

読めなくても、そのまま先に進むことはできますが、私はどうしても、そこで立ち止まってしまうのです。

頭の中で「音読」できなければ、読み進めない性分なのです。

文章を読む作業は中断して、ネット検索か何かで、読めない字句の「読み」を解明する作業に移ります。

自分がそうなので、このブログも、読者の黙読の流れが止まらないように、注意して書いているつもりです。

最後まで読んでもらえる内容かどうかは、別問題です。

執筆の執念

ライブドア元社長・堀江貴文氏が、4日前に仮釈放となりました。

彼は獄中から、メールマガジンを発信し続けていました。

収監前から毎週配信していた「堀江貴文のブログでは言えない話」がそれです。

目次を見ただけでも、時事ネタ、起業記、近況報告や書評など、バラエティーに富んだ内容で面白そうです。

収監中の配信では、「ダイエットに効果的なグルメ情報(獄中版)」のような自虐ネタも満載です。

有料(月840円)でありながら1万人以上の購読会員があり、服役中にもかなり稼いでいたことになります。

ホリエモン恐るべしです。

仮釈放後、彼は「インターネットを使ったニュース批評の新しい形を事業化したい」と語っていました。

長野刑務所では、かなり充電したようです。その才能を、これからは良いコトに使って欲しい。

服役囚と書き並べるのも恐縮ですが、脳梗塞で入院していた石原慎太郎氏も、病床で小説を書いたそうです。

しかもそれを「非常にいい短編小説」と自画自賛してはばかりません。これまた恐るべき人物です。

私が万一、入院したり収監された場合、この人たちと同じような執筆活動ができるとは、とても思えません。

もちろん、入院も収監も、できれば避けたい。まずはそれからです。