未曾有の演説

安倍首相の先日の<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1305.html" target="_blank" title="演説">演説</a>は、外務省発表の日本語版原稿を、何度も読み返しました。よく練られた文章です。

第二次大戦記念碑を訪れたときの逸話は、情景が目に浮かぶような、詩的な描写でした。

『神殿を思わせる、静謐な場所でした。耳朶を打つのは、噴水の、水の砕ける音ばかり』

「耳朶を打つ」ほどの音の中で「静謐」と感じるのは、芭蕉の句にも共通する、日本的表現かもしれません。

演説の最後で安倍首相は、日米同盟を強調するために、東日本大震災の際の「トモダチ作戦」に触れました。

『米軍は、未曾有の規模で救難作戦を展開してくれました』と。

恥ずかしながら私は、「未曾有」は良い意味にも使えるんだと、これを読んで再認識した次第。

この部分は原文(英語版)では、 “at a scale never seen or heard before” となっています。

「未曾有」は「未(いま)だ曾(かつ)て有らず」の意味なので、善悪両方に用いると、辞書にはあります。

しかし実際に使うのはたいてい、「未曾有の大災害」や「未曾有の危機」など、悪い意味です。

あの震災後には、メディアでこの言葉が、何十回も何百回も繰り返されました。

だからこの言葉を、とりわけ震災がらみの話題で、良い意味に使うのは、相応しくないように感じました。

「未曾有の規模で」などと言わず、「かつてない規模で」の方が、すんなり入って来た気がします。

この点は引っかかりましたが、それでもこの演説は、ストーリー性があって、味わい深い文章だと思います。

こういうのを、学校の授業でとり上げてほしいものです。

負けず嫌い論

私が「負けず嫌い」だと<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1290.html" target="_blank" title="先日">先日</a>書いたところ、知人から次のようなご意見を頂戴しました。

「負け嫌い」ではなく「負けず嫌い」。どうして「ず」が付くのか。納得のいく説明をせよというのです。

面倒くせえ、とは思いながらも、この際、考えをまとめてみました。

手元の辞書には「『負け嫌い』と『負けじ魂』などの混同」とあります。誤用が定着したというわけです。

実につまらない説明です。だいいち、そのように思って、われわれは「負けず嫌い」を使ってはいません。

似た表現に「食わず嫌い」がありますが、「負けず嫌い」とは明瞭な違いがあります。

食わず嫌いは、食べてもいないのに嫌い、という意味であって、まだ食べてない。でも、食べる前から嫌い。

負けず嫌いは、負けたのにそれを認めたがらない、という意味でしょう。もう負けたけど、その状態が嫌い。

負けを認めたくない、自分は負けていないと思う余り、勢い余って打ち消してしまった、そんな感じです。

つまり、「負けず」+「負け嫌い」=「負けず嫌い」というニュアンスです。結局、辞書と同じでした。

次回は「食べず嫌い」と「おかず嫌い」の違いについて考察します(うそ)。

雪辱を晴らす?

「雪辱を果たす」と「雪辱を晴らす」

雪辱という言葉が「辱めを雪ぐ(すすぐ)」の意味なので、後者は誤用とされています。

晴らすが果たすに似ていることから、混同しやすいのでしょうか。晴らすのは屈辱です。

「名誉挽回」に対して「汚名挽回」も、似たような誤用の例です。

とは言え、汚名を返上すれば名誉を挽回することになるので、「汚名挽回」でもニュアンスは伝わります。

汚名挽回と言ったところで、日常会話には支障ありません。言葉にうるさい人間が、少々いらつくだけです。

「的を射る」と「的を得る」とでは、誤用とされる後者にも、ほとんど違和感を感じません。

射ることで的をモノにする、みたいな印象があるからでしょうか。文法的にも大間違いとは思えません。

明らかに間違った言葉は、原則として、それを聞いた人や読んだ人によって、その都度訂正されるべきです。

しかし誤用しても意味がおおむね正しく伝わる言葉は、だんだんとそのまま定着していくのかもしれません。

少なくとも、言葉の表現や解釈や使われ方が変わることは、「言葉のゆれ」として許容されます。

私はむしろ、言葉のゆれには肯定的、あるいは積極的です。敢えてグラグラゆらしたいぐらい。

時代をさかのぼれば、言葉の大半は外来語といわれます。多くは中国から入って来ています。

古代以来の日本人がそれを受け入れて、今日まで使い倒してきただけの話。

その過程で、ことばがゆれ、誤用され、別の外来語も入り、どんどん進化して現在に至るわけです。

そもそも日本人はみな、列島の外からから来た移住者の末裔です。国民全員が、外国出身です。

人類が、混血や突然変異で進化してきたのなら、言葉の進化は、外来語とゆれによって起きるのでしょう。

よくある誤用やおかしな若者言葉でも、淘汰されずに残るのであれば、それを進化と言うのかもしれません。

負けず嫌い

生来の負けず嫌い。争わなければ負けずに済むので、私はなるべく争わない方針で生きてきました。

しかし世の中、競走だらけ。負けず嫌いの人間が負けたとき、口から出るのは負け惜しみです。

長い目で見れば、目先の勝敗などとるに足りない。「負けるが勝ち」なのだと、自分にそう言い聞かせます。

さて、最初の勝負でAが勝者、Bが敗者とすると、負けるが勝ちの理屈ではAが敗者、Bが勝者と逆転します。

ところがもう一度、負けるが勝ちの理論を適用すると、こんどはAが勝者、Bが敗者となります。

これを繰り返せば、AとBの勝敗は、たびたび逆転することになります。

奇数回だけ繰り返せば、勝敗は逆転し、偶数回繰り返せば、勝敗は元通りです。いったいどっちなのか。

結局「負けるが勝ち」は、勝敗をはっきりさせないための、知恵なのかもしれません。

日本人の基本的性質「和を以て貴しと為す」を示したものだと思います。

できるだけ争わない態度こそ、日本人の美徳であり、私にもその血が流れているというわけです。

負けず嫌いの人間って、けっして圧勝もしたくはない、なんとなく引き分けに持ち込みたい人間なのです。

ブログ更新連続3年

立花隆氏が以前、クローズアップ現代で、「書くことがいちばん役に立つ」と言っていました。

まことにおこがましいことですが、私も最近、同じことを感じています。

私の場合、学術論文はまるで書いていないのに、しょうもない文章だと、わりと筆が進みます。

しかし、このようなブログを書くためにも、それなりの準備と、わずかばかりの努力はしているのです。

(1)調査:常にアンテナを張り、周囲を観察し、世の中の動きに気を配る。つまりネタ探し。

(2)勉強:面白そうなことには食いつき、研究する。でもつまらなければ、すぐに放り出す。

(3)考察:文章という形にしていく過程で、自分の考えをまとめていく。いちばん大事な作業です。

(4)推敲:全体のリズムを整え、誤字脱字などを辞書でチェックする。それでも間違う。

本と比べて、ブログが圧倒的に勝っている点があるとすれば、「閲覧性」だと思います。

(1)誰でも無料で、読みたいときに読むことができる(パソコンかスマホが必要だけど)

(2)最新の投稿も、古い文章も、分け隔てなく読むことができ、自由に検索ができる

(3)リンクを張ることで、文章どうしを関連づけ、別の投稿へと誘導できる

毎日書き続けている当ブログは、今日で連続更新3年、1095日連続の投稿となりました。

特に目標もなく、ただ毎日、何かを書いているだけです。しかしこうなりゃ、続けられるだけ続けます。

この積み重ねがはたして「雨だれ石を穿つ」か、「塵も積もれば(ゴミの)山となる」だけか。

乙なもの

いまの悩みは、Apple Watchのどれを買おうかということです。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1253.html" target="_blank" title="昨日も書いた">昨日も書いた</a>ばかりですが、【松竹梅】の3グレードで値段が大違いなのです。機能はまったく同じなのに。

考えてみると、一般的な腕時計でも、時刻を表示するという機能は同じでも、価格はピンキリ。

いや、高級な機械式時計の方がむしろ、普通のクオーツよりもずっと、時刻は不正確だったりします。

つまり、腕時計の価値(価格)は、時刻の正確さとは必ずしも相関しないのです。

なぜなら腕時計は、実用品であると同時に、装飾品だからです。

Apple Watch【松】の位置づけもまた、単なるIT端末ではなく、装飾品でもあるということなのでしょう。

さすがに私は中国人富裕層ではないので、【松】には手が出ません。いくらApple信者でも。

しかし廉価版の【梅】を買うのも、なんとなく抵抗があります。Apple信者なので。

こういう時は、真ん中の【竹】を買うのが、いちばん落ち着く気がします、Apple信者として。

上でも下でもなく、松竹梅なら【竹】を、甲乙丙なら【乙】を選ぶ。そこが奥ゆかしいところでしょう。

【乙】は、甲乙丙では真ん中だけど、十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)でいえば、上から2番目。

最上位ではなく、一歩下がって好位置にあるもの。これこそ「乙なもの」なんでしょうね。

安部公房の生誕日

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-286.html" target="_blank" title="安部公房">安部公房</a>は、きのう3月7日で、生誕から91年だったそうです。

今朝、FacebookのKobo Abeページから、そのような通知を受けました。

海外サイトなので時差があり、1日遅れで知った情報でした。

その通知はたった1行 、「Kobo Abe was born 91 years ago today!」とありました。

その下の「翻訳を見る」というボタンをクリックしてみると、「弘法阿部91年前の今日が生まれた!」と。

ズッコケそうになります、Bing翻訳。いやいや、そもそも元の英文は正しいのか正しくないのか。

英語通を自認する知人に尋ねると、仕事で忙しいのか、「正しい」の3文字だけが返ってきました。

試しに前記の英文をエキサイト翻訳に入れてみると、「安部公房は今日91年前誕生した!」と妙な日本語。

こんどはそれを再翻訳してみると、「Kimifusa Abe was born 91 years ago today!」となりました。

それをまた再々翻訳すると、「キミフサエイブは今日91年前誕生した!」。徐々にずれていきます。

ていうか、ずれているのはお前のブログだろう、と叱られそうです。すみません。

安部公房の作品はよく「不条理もの」と言われますが、現実の社会も似たようなものでしょう。

変なところに迷い込んだり、理不尽な裁判にかけられたり、妙な病気に罹ってしまったり。

私がいちばん怖いと思ったのは、『闖入者』に描かれた、多数決の恐怖です。

見知らぬ大家族に、部屋を占領されてしまった主人公。いくら抗議しても、多数決で否決されてしまう。

「悪」が多数になったとき、「善」が挽回できるチャンスがありません。

ときどき、民主主義って本当に正しいのだろうかと、ふと考えたりします。あぶないですか、この発想。

くどい文章

他人が書いた、くどい文章が嫌いです。もっとスッキリ書けば良いのにと、読んでてイライラします。

でも私自身は、くどい文章を好んで書きます。もっとネッチリ書きたいぐらい。そこは性格と同じ。

狙ってネッチリ書いた文章と、推敲が足りずにスッキリしていない文章とは、まったく別モノなのです。

私がいちばん嫌いなのは、そして自分が書くときに避けたいのは、同じ言葉や表現を繰り返すことです。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-223.html" target="_blank" title="以前">以前</a>も、推敲について書いたことがありますが、今日は具体例を挙げてみます。

「第1に・・・。第2に・・・。第3に・・・」という羅列。これが許されるのは、科学論文や実用書だけ。

「第1に・・・。それから・・・が2番目で、最後が・・・」と書けば、抑揚が出て読みやすくなります。

あえて羅列したいとき、私は(1)とか(2)とかの番号を振って箇条書きしています。

「・・・でしょうね。・・・でしょうね。・・・でしょうね。」と同じ語尾が続くのもイヤ。吐きそう。

「・・・でしょうね。・・・かもしれません。・・・もあるかも。」と、ひとつひとつ表現を変えたいです。

ここからは、自分のことを棚に上げて書きますが、世の中には、読みにくいブログが多いです。

発想はいいんだけど論理展開がわかりにくい、主義主張には賛同するけど文章がまったく練れてない、とか。

でもその反対に、うっとりするような文章にも、ときどき出遭います。

整然とした論理展開、贅肉ゼロ、でも随所に遊びあり、流れるように読める。そんなブログが私の目標です。

もっと少なく読む

Amazonで、ある本を検索したら、その本の概略が冒頭の4行だけ、記載してありました。

ちなみにその本とは、小田嶋隆氏の「場末の文体論」ですが、その本のことはさておきます。

その4行の下にある「続きを読む」というボタンをクリックすると、続きが全文(全10行)表示されます。

その10行の下には「もっと少なく読む」というボタンがあり、クリックすると表示が4行に戻ります。

「もっと少なく読む」って、なんですの、お兄さん。

文章をすべて読み終わった者に対して、「もっと少なく読む」という選択肢は、意味がありません。

おそらく、文章を全部を読むのが面倒になった人に、元の短縮文章に戻す機会を与えるボタンでしょう。

ためしに米国のAmazonサイトを見ると、「Read more」と「Read less」でした。

この表現で英語圏の人は違和感ないというのなら、それはしょうがない。

しかしせめて、日本のサイトではそんな違和感のある直訳を使わず、「表示を戻す」ぐらいにできないのか。

おそらくReadは純粋な「読む」ではなく、「読み取る」とか「把握する」の意味で使っているんでしょうね。

だから「Read less」=「じっくり読む気にならんから、ざっと目を通す」ぐらいなのかもしれません。

英語通の知人に尋ねると、「Read less」は「読書ばかりせず実践せよ」という意味でも使うとか。

なので「紹介文ばかり読まずに本を買え」という意味にも解釈(こじつけ)できると。なるほど、一理ある。

からすまがり

夜中に突然、こむら返りで目が覚めることがありますよね。ないですか。私は時々、左の下腿がつります。

こむら返りが起きると、しばらく悶絶し、次に軽くストレッチして、鎮まるのを待ちます。

睡眠中のこむら返りの原因は様々ですが、私の場合、日ごろの運動不足と、夜の水分摂取不足でしょうかね。

アルコールでは水分摂取になりません。むしろ脱水になりやすいです。

脳梗塞の予防も兼ねて、寝る前にコップ一杯の水を飲む習慣を付けようと思いながらも、つい忘れがちです。

こむら返りのことを熊本弁で「からすまがり」ということを、数年前に知りました。

「からすまがりのする」という患者さんの言ってる意味がわかるまで、しばらく時間がかかりました。

しかしネットで「からすまがり」を検索すると、「鴉魔狩り」なるものが引っかかってきます。

私は知りませんでしたが、漫画『ONE PIECE』に登場するロロノア・ゾロの技のひとつらしいです。

宙に飛び、周囲の物を瞬時に切り裂く技とのこと。こむら返りとは、あまり関係なさそうです。

ゾロの技には他にも、ダジャレっぽい名前のものがたくさんあるようで、笑えます。「焼鬼斬り」とか。

ONE PIECEの作者、尾田栄一郎氏は、熊本市出身。からすまがりという言葉は、知っていたはずです。

ならばこれからも、熊本弁由来の技を、次々に繰り出して欲しいものです。たとえば「阿斗堰(あとぜき)」