ブログという「日記」

「6月10日」というタイトルの作文を書いたことがあります、と当ブログに書いたのは<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-249.html" target="_blank" title="12年前のこと">12年前のこと</a>でした。

その作文は小学6年生の時に起きた「事件」についての思い出話なので、事件自体は50年以上も前のことです。

子どもの頃の作文を読むと、もうこの頃から未来の自分の片鱗はあったのかと、ある意味で少々愕然とします。

と書きましたが、冒頭に紹介した作文が探しても見つからず、明日書斎を捜索してみようかと思っています。

当ブログは、当院開業の翌年の、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1.html" target="_blank" title="2008年の6月">2008年の6月</a>から始めています。それからちょうど16年経ちました。

いまその16年前ごろの投稿を読んでみると、当時考えていたことや心情が、時空を超えて思い出されます。

とは言え、基本的な思考回路は変わっておらず、その進歩の無さに驚きます。

家では日頃いつも「宿題」と呼んでいる当ブログですが、提出期限のある宿題であり「日記」でもあります。

時には「旅日記」だったり、「読書感想文」のこともあれば「食レポ」のこともある。

もちろん、「診療コラム」や「医療行政批判」や、「一般社会問題」や「映画鑑賞記」だって書きますよ。

そんな風に、ブログのテーマやジャンルは、できるだけバラエティに富んだものにしたいですね。

今日は通算4,626回目の投稿になります。そのうち最後の4,543回は、13年間以上も続く連続投稿です。

それほどまでに長期間連続しているからこそ、どうしても途切れさせたくない気持ちが強くなります。

逆説的な言い方ですが、その「中断恐怖症」があるからこその連続記録更新なのです。

「ご理解いただき、ありがとうございます」

「【重要】【ヤマト運輸】からお届けする商品が、お客様のご住所不備のためお届けできませんでした。」

このような件名のメールが届きました。ヤマト運輸のクロネコのロゴ入りのメールです。

以前と比べれば、日本語としてはずいぶん、こなれてきてますね。ですが残念。

ヤマトからなら「商品」じゃなくて「お荷物」でしょう。「ご住所不備」も件名の句点(。)もおかしい。

「下記の配送情報をご記入いただきますよう、1-2営業日以内に再配達の手配をさせていただきます。」

日本人には普通、このような妙な文は書けませんね。明らかに途中のフレーズが「抜けて」ます。不合格。

「ご理解いただき、ありがとうございます。」

文末のこの一文は、間違いじゃないけど違和感がありますね。

飛行機内等で、“Thank you for your understanding and cooperation.” というアナウンスをよく聞きます。

これを日本語で言うときは、「ご理解とご協力をお願い致します」になるはずです。

お願いをする時点ではまだ、日本人は「ありがとう」とか「感謝します」とはあまり言いません。

「わかりました。協力します」と応えられてはじめて、「ありがとうございます。感謝します」となるのです。

「てにをは」などは以前よりも改善しましたが、詐欺グループの日本語にはまだまだ穴がありますね。

中断恐怖で12年

いわゆる「間の日」の今日、当ブログは連続投稿12年に到達。1日も欠かさず、12年間書き続けてきました。

(1年前とほぼ同じ文ですみません)

この4年あまりはコロナ関連について書くことが多く、その前は地震のことばかり話題にした頃もありました。

では、その前の、コロナよりも地震よりも前のブログって、いったいどんなこと書いてたんでしょうね。

このところ毎朝6時から、「ANA推しが集まる青い沼」と称する「Clubhouse」(クラハ)を聞いています。

パラダイス山元氏らがダラダラ話すANAに関連したりしなかったりする雑談を、ただ聞くのです。

クラハって、まだやってるの?、と思う方もいるでしょうか。やってるんです。

山元氏らのクラハは連続1,000日以上続いていて、「最長寿クラハ」だと自認しているようです。

最近私は朝5時53分に起床するので、トイレの中でスマホをいじってる最中に、Clubhouseが始まります。

面白い話題の日は出勤前まで断続的に聞いてますが、面白くなければ途中で止めます。

それにしても、毎朝6時から1時間ほど(日によっては1時間半)、生配信を1,000日続けるってすごいですね。

当ブログは、夜中の0時前が締切ですが、それまでの間なら好きな時に執筆や投稿ができます。

ところが件のクラハは、何しろ毎朝6時からの「生配信」ですからね。時間厳守なのです(時々遅刻あり)。

パラダイス氏が徹夜明けでも、入院中でも海外旅行中でも、必ず6時に始まります。意地で維持してる。

あるいは、当ブログと同様、連続記録が途絶して後悔するのが怖くて、中断しきれないのかもしれません。

『空飛ぶドクター』

渡辺由紀子さんというお医者さんが書いた、『空飛ぶドクター』という本を読みました。

防衛医大を出て陸上自衛隊医官となり、さらにフリーランスとなって日本中の僻地を飛び回っている方です。

優秀で、真面目で、タフで、とにかく積極的だからこそ、こんなフリーランスが務まるんでしょうね。

ただし本としては、レビューを書きたくなるような読後感がなく、医者以外の一般の方が読むと良い内容です。

でも、年に200回以上も飛行機に乗っている、という点は、素直にうらやましく思ったりします。

2日前に、Amazonから届いたその本を当院のスタッフに見せたら、「先生と同じですね」というコメント。

あー、空飛ぶドクター繋がりですか。私は単に、空を飛ぶのが好きなだけのドクターなんですけどね。

日本中の僻地に、文字通り飛び回って活躍中の渡辺先生と比べては、申し訳ないです。

でも実は世の中には、飛行機好きが高じて、離島の診療所に通う仕事を始めた医師もいます。うらやましい。

それならば私も行く行くは、石垣島かどこかに週1でバイトに言ってもいいなと、妄想したりします。

いやいや、そんな遊び半分で離島診療なんて務まりませんね。失礼しました。

そういえばこれまでに、搭乗した<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-2899.html" target="_blank" title="旅客機内で急遽、診療行為">旅客機内で急遽、診療行為</a>をしたことが2回ほどあります。

そのうち1回は、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-2278.html" target="_blank" title="私が心肺蘇生をしたケース">私が心肺蘇生をしたケース</a>です。患者さんの心拍と血圧はなんとか戻りました。

ただ、救急救命に際しての必要物品が、機内にはあまりにもなさ過ぎました。あれって、改善したんですかね。

「接種した」のは誰か問題(その2)

HPVワクチンを接種する人が増えています。躊躇していた人たちも、接種へと傾きつつあるようです。

日本人があれだけ忌み嫌っていたワクチンだったのに、すっかり風向きが変わってきました。

たぶんそれは、新型コロナワクチンのおかげだと思います。

開発されたばかりの新しい機序によるワクチンを、治験もそこそこに、日本人がこぞって接種しました。

けっこうな副反応があるのに、しかもほぼ経験の無い筋肉注射を、コロナ怖さに皆が何度も受けたのです。

HPVワクチンは、コロナワクチンに比べればはるかに副反応が少なくて、なにより世界的な実績があります。

子宮頸がんという重大な病気を予防出来るのに、その接種を忌避し続ける合理的理由が失われたわけです。

ところで、「接種する」という動詞は本来、医療従事者が主語だと、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-4055.html" target="_blank" title="以前書いた">以前書いた</a>ことがあります。

被接種者が言うときは、厳密には、「接種を受けた」とか「接種してもらった」と言うべきではないかと。

でも実際には、「コロナワクチンは3回接種しました」なんて普通に言いますよね。

この点についてNHKは、「接種してきた」の方が「接種してもらってきた」よりも自然だとしています。

ただし、面白いことにNHKの調査では、高齢であるほど「接種してきた」に違和感がある人が多いとのこと。

まさに私の考え方は、70代以上の高齢者にありがちな意見のようで、それはそれでガッカリです。

挨拶でも学会発表でも、原稿は書くべき

結婚式・披露宴に参列してきました。感慨深くて良いものですね。

若い参列者の多くは新郎新婦に共感して感激し、また別の世代の方は親の気持ちになってウルッとくるのです。

私はもちろん後者。わが子らの結婚式の時を思い出したりして、しみじみとした感動がありました。

結婚式の時点で既に盛り上がっていたので、披露宴での主賓挨拶は、だいぶアドリブが入ることになりました。

そうなることは予想はしていましたが、それでも、話す内容はあらかじめ原稿にしていました。

話しの本筋が仕上がっているからこそのアドリブです。そうでなければ、収拾が付かないことになります。

もちろん原稿を見ながら喋るわけではありませんが、話したいことを明確にするためにも、原稿は必須です。

一方で、学会発表のような学術的な口演では、私は自分にアドリブ禁止を課していました。

ついついアドリブが入ってしまうと、どうしても長くなってしまいがちだし、噛み易くなるからです。

それにそもそも、学会発表でアドリブが入る余地があるのは、元の原稿の完成度が低いからだと思います。

アドリブの入る隙が無い、言いそうなアドリブがすでに全部含まれた、そんな原稿こそ完成版でしょう。

それを何度も黙読・音読・暗唱し、何度も修正し、一字一句たがわずに諳んじられるようにするのがゴール。

ひとたび完全に自分のモノにしたら、逆説的ですが、もう原稿など忘れても構わないのです。

メール冒頭の挨拶文が嫌い

「このたび貴院のお取組みを拝見し、大変興味をもったため、ご連絡させていただきました」

そのように記載されたメールが、先日ある出版社から届きました。

提案の趣旨はともかく、私はメールの文言が気に入らない。その冒頭は、次の記述で始まっていました。

「平素より大変お世話になっております。○○社の○○と申します」

私はその出版社には何もお世話した覚えはありません。なのに「平素より大変お世話になっております」だと。

単なる挨拶言葉なのでしょうけど、事実に反する内容の文章を平気で書いてくるとは、どういう神経なのか。

そのような挨拶文を目にすると、かえって不愉快な気分になるのは私だけでしょうか。

ところが、NHK放送文化研究所が昨年行った「日本語のゆれに関する調査」では、

それほどお世話になっていない人に対して,メールの冒頭で「お世話になっております」と書くことに対し、

「おかしなことだと思う」26.9%、「おかしなことだと思わない」69.2%

つまり、形骸化した挨拶言葉を容認する人が大多数なんですね。単なる枕詞程度の位置づけなのでしょう。

私のように、いきなり本文からメールを書くような人間は、失礼なヤツと思われるのでしょうか。

でもビジネスメールは、グダグダ挨拶を書き連ねるより、用件をスパッと書いた方が良いと私は思っています。

なので最近は、最小限の文言だけを伝えたいメールの場合、件名にその文言を書いて済ませたりしています。

間違ってますかね。

「隗より始め」てみたけれど

自民党の派閥が政治資金パーティー収入の一部を裏金化した問題が、ずっと尾を引いています。

多くの派閥が解消を決める中で、その先陣を切ったのが、岸田首相でした。

岸田氏はこのことを「岸田派のけじめとして、『隗より始めよ』で対応した」と述べています。

また、メディアはこの決断を「『乾坤一擲(けんこんいってき)』の勝負に出た」などと表現しています。

この2つの「故事成語」は私の好きな言葉ですが、だからこそ、これらの使い方には違和感があります。

「隗より始めよ」は通常、「手近なところから始めよ」とか「言いだした者から始めよ」の意味で使われます。

岸田氏も当然、そのつもりで言ったのでしょう。ですが、中国古典の好きな私には、しっくりきません。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-3641.html" target="_blank" title="前にも書いたように">前にも書いたように</a>、本来は「取るに足らない人間である私(=隗)を採用してみよ」という意味ですよね。

私にはこの「隗」という人物の、壮大な策略が目に浮かびます。

なので岸田氏が、自分の派閥を卑下して真っ先に解消して見せたとすれば、これはなかなかの策略家ですね。

「乾坤一擲」は、「さいころを投げて自分の運命をかけるような大勝負に出ること」の意味です。

今回の岸田氏の決断が、そんな「いちかばちか」の勝負だとは思えません。それなりの勝算があったはずです。

でもその結果、いまは一見混沌としていますが、最終的には、中途半端な結末を迎えそうな気がします。

本気で自民党をひっくり返すぐらいの「いちかばちか」は、岸田氏にはちょっと無理っぽいですね。

「違和感を感じる」

NHKのサイトに最近、「違和感を感じる」という言い方はおかしいのか、というテーマの文章がありました。

この議論の結論だけ紹介するなら、著者は「違和感を感じる」を許容する考えを支持していました。

「感」という字が重複しているが、「違和感」の「感」と「感じる」の「感」は意味が違うという理由です。

微妙な違いですが、確かに私も「頭痛が痛い」とか「馬から落馬する」ほどの「重複感」は無い気もします。

ミニカルテ等の患者向けの文書で、「違和感を覚えた際には…」などと書くことはあまりないですね。

「覚える」という言葉は通常は「記憶する」の意味で使うので、日常的な表現の中で使うには抵抗があります。

「違和感を感じる」は確かに少し「くどい」ですが、「覚える」よりはすんなり伝わるような気がするのです。

当ブログでも、私は「違和感を覚える」ではなく「違和感を感じる」を何度も使ってきました。

その使用頻度を数えると、「覚える」3回に対して「感じる」30回と、思いのほか「覚える」を嫌ってますね。

なお、できれば「違和感を感じる」も避けたくて、最も多く使っていたのは「違和感がある」でした(50回)。

『東京都同情塔』

九段理江さんの芥川賞受賞作『東京都同情塔』を、Kindle版で一気読みしました。

例によって、なるべくネタバレしないように感想を書いてみます。

主人公は、犯罪者が快適に暮らすための収容施設「シンパシータワートーキョー」を設計した建築家の女性。

設定のユニークさもさることながら、私が面白いと思ったのは「言葉」に対するこだわりでした。

「文書生成AIを駆使して書いた小説で、全体の5%くらいは生成AIの文章をそのまま使っているところがある」

受賞会見でのこの発言が議論を呼んでいますが、これは九段氏の目論見通りのことでしょう。

生成AIで作った文章を、あえて使うという実験的手法なのであって、批判されるような使い方ではありません。

「生成AI vs 人間」は、今後の文学には避けられないテーマとなるでしょうから、本作が先鞭をつけた形です。

さてこの先、小説と生成AIは、どのように共存共栄していけるのでしょうね。

生成AIで小説を書くことをテーマにした小説も出てきそうです。たとえば、こんなのはどうでしょう。

・生成AIで書いた小説でデビューした小説家が、自責の念に駆られながら2作目も生成AIで書いてしまい…

・人気小説家がスランプに陥り、ついにこっそり生成AI に手を出したら、大ヒット作ができてしまったが…

・生成AI小説が氾濫してきたので「生成AI文学賞」が創設された。ところが第1回の応募作を見たら…