記録中断の恐怖

当ブログはすでに5年半以上、毎日更新を続けています。私にとっては、日記のような苦行です。

ここまで続くと途切れさせたくないのが人情、または根性、あるいはこだわり、ていうか意地。維持する意地。

ところが今日は、連続記録中断の危機がありました。

一般に、連続投稿の中断を余儀なくされる可能性があるとすれば、次のような原因でしょうか。

(1)仕事で帰宅が遅くなる

かつて冬の忙しい時期には、夜10時や11時帰宅のこともありました。深夜0時が締め切りなので、焦ります。

(2)飲み会がある

出かける前か、出かける途中のタクシーで書いたこともありましたが、さいわい、飲み会自体が少ないです。

(3)旅行に出かける

旅行自体がまれ。旅先には必ずMacを持って行きます。予約投稿もできるのですが、どうしても不安なので。

(4)パソコントラブル

大丈夫。職場でも自宅でも、それこそiPhoneでも、ブログの投稿はできるようにしています。内容は二の次。

(5)投稿サイトのトラブル

今日焦ったのはこれ。投稿サイトに通常通りのログインができないのです。いきなり「二段階認証」しろと。

その認証用コードが送られて来たのは、日頃あまり使っていないアドレス宛でした。

ところが、そのアドレスを管理するプロバイダのトラブルなのか、認証用コードのメールがなかなか届かない。

もはやこれまでか、と諦めたその瞬間、何事もなかったようにメールが届きました。こら、脅かすなよ。

教訓:何でも早め早めの準備が大事

1時間弱とは

「1時間弱」という言葉を、「1時間と少し」の意味だと思っている若い人が結構いると聞いて、驚きました。

NHKの調査によると、20代の4分の1、10代の3分の1が、「1時間弱」の意味を取り違えていたとのこと。

若い人の誤解の原因をNHKは分析していませんでしたが、私には思い当たる節があります。

それは「震度6弱」などの震度表現です。

1996年の震度階級改定によって、震度5と震度6が、それぞれ「弱」と「強」に細分化されました。

「震度5弱」は、従来の震度5よりも弱いのではなく、震度5のカテゴリーのうちの弱い方という意味です。

その「震度5弱」のノリで、「1時間弱」を「1時間台前半」のように感じる人がいるのかもしれません。

これは震度階級の命名法が悪いですね。改定の際には、「1時間弱」などの言葉の存在を考慮すべきでした。

「震度5」を細分化するならば、例えば「震度5」と「震度5強」の二つにするのでも良かったと思います。

「年若い者」の意味の「若年」を、「弱年」とも書きます。この場合の「弱」は、「若い」の意味です。

まだ若くて成熟していないという意味で、「1時間若(弱)」は「1時間足らず」を表すのかもしれません。

「1時間弱」と同様に、「半分弱」と聞けば、若い人には「半分より少し多い」と理解する人が多いそうです。

ちなみにオジサンは、「半分弱」と聞いたら「范文雀」を思い出します。

文筆以前に書字能力

純愛小説『アナログ』。才能なら俺にもあると、ビートたけしが<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1778.html" target="_blank" title="又吉直樹">又吉直樹</a>を意識して書いた小説らしい。

読まずに思ったことは、有名人が書けばすぐに話題になってオトクだな、というひがみ。

才能を見せたいなら匿名で出版すればいいのに、と小説など書けもしないのに文句を言ったりします。

もちろん、この本について誠実に評価するためには、読むしかありません。そのうち読みます(たぶん)。

「新しいことをやることで自分に負荷をかけていきたい」

ビートたけしが、今回の小説刊行に際してこう言ったそうです。この姿勢は、すばらしいと思います。

運動能力でも知的能力でも、ちょっと負荷をかけるからこそ鍛えられ、さらに伸びるというもの。

負荷もかけずに現状維持、あるいは低きに流れる姿勢では、人の能力はどんどん廃れていくばかりです。

先日の開院記念日に、手書きのメッセージを職員向けに書こうとしたら、まともに書けず愕然としました。

漢字を忘れてることは想定済み。だからあらかじめパソコンで原稿書いて、その画面を見ながら書いたのに。

まず、字がヘタ。とてつもなくミミズ。ミミズ以下。元々ヘタなのに、以前にも増してヘタクソになってる。

ちょっと書いたらすぐ疲れる。ボールペンを持つ手の力と筆圧とのバランスが、うまく調整できないのです。

現代人は字が書けない、などとよく言われますが、私の場合は文字通り、書字能力が廃れてきているようです。

カズオ・イシグロ氏

ノーベル文学賞は、日系英国人作家、カズオ・イシグロ氏が受賞しました。

恥ずかしながら私は、この人のことをまったく知らず、なので作品も読んだことがありませんでした。

イシグロ氏原作の『わたしを離さないで』がドラマ化され、昨年TBSで放送されたようですが、見てません。

世間の流れに慌てて追いつこうと、今朝はさっそく近所の紀伊國屋書店に行ったのですが、すでに売り切れ。

店頭の一角には、陳列台の底を晒した部分がありました。そこがイシグロ氏の特設コーナーだったようです。

がしかし、特設コーナー小っちゃすぎ。わずか50センチ四方。本を並べようにも、在庫がなかったのか。

ふと脇を見ると、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-2116.html" target="_blank" title="村上春樹氏">村上春樹氏</a>の本が、その数倍以上の広さに平積みされていました。それも悲しい光景です。

すごすごと手ぶらで帰宅。こうなればAmazon頼みです。在庫切れでも大丈夫。Kindle版がありますから。

というわけで今日はまず、『わたしを離さないで』を読みました。

内容には触れませんけど、驚いたことがあったので、ひとつ言わせてください。

『わたしを離さないで』と、4年前の「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-828.html" target="_blank" title="第1回 星新一賞">第1回 星新一賞</a>」に応募した私の作品のプロットが、似てるのです。

もちろん私は、イシグロ氏の作品を知らずに書いたわけで、パクったわけじゃありませんよ。

でも「星新一賞」の選考関係者は、「なんじゃこれ、カズオ・イシグロのパクリじゃん」と思ったでしょうね。

最大限に自己弁護させていただくなら、私の着想だけは、わりと良かったと言えなくもない。

ただし応募作は、文学的な表現も何もない超短編。イシグロ作品とは比ぶべくもない、薄っぺらな作文です。

新聞連載小説

伊集院静氏による、日経の連載小説『<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-2144.html" target="_blank" title="琥珀の夢">琥珀の夢</a>——小説、鳥井信治郎と末裔』が、おととい完結しました。

サントリー創業者である<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-2136.html" target="_blank" title="鳥井信治郎">鳥井信治郎</a>の生涯を軸に、その息子と孫たちの現在までの活躍も描かれていました。

NHKの『<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1091.html" target="_blank" title="マッサン">マッサン</a>』以来、ウイスキーがマイブームなので、『琥珀の夢』はとても興味深い物語でした。

とは言え、私がジャパニーズウイスキーで飲むことがあるとすれば、マッサンの方(ニッカ)です。

鳥井信治郎氏と、マッサンことニッカ創業者の竹鶴政孝氏とは、こだわりも思想も違います。

しかしこの両者が共にいなければ、世界的評価の高い今のジャパニーズウイスキーはなかったでしょう。

竹鶴氏の強烈なモルトと、天才経営者鳥井氏のグレーンが、見事にブレンドされたわけです(うまくない)。

私がニッカびいきなのは、竹鶴政孝の「鶴」の文字に親しみを感じる面もあります。

銘柄でいうなら、ピュアモルトの「竹鶴」や、ブレンデッドの「鶴」もいい。「鶴」はボトルの形も大好き。

シングルモルト「余市」も、私の名前「由一」を「ゆいち」と読めば、似てなくもない。

さて、日経の連載小説は昨日から、林真理子氏の『愉楽にて』に変わりました。

男女の話から始まったこともあり、なんだかなあ、て感じ。日経の読者層にウケる物語になるんだろうか。

それにしてもこういう新聞連載って、作家は原稿を何日前に書いてるんでしょうね。1週間?、1カ月?

まさか毎回、前日執筆なわけないでしょうけど、もしそうなら、地獄ですね。

影裏か星の子か

お盆休みの2日目は読書の日。<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1934.html" target="_blank" title="芥川賞">芥川賞</a>受賞作、沼田真佑氏の『影裏(えいり)』を、遅ればせながら読みました。

いつものように、単行本ではなく受賞作全文掲載の文藝春秋を買うところが、ちょっとケチな私です。

内容には触れませんが、ひとことで言うなら「我慢の読書」。短編のわりに読み進むのに時間がかかりました。

なぜなら、情景描写や心理描写があまりにも上手く、「文学的」すぎるからです。私の苦手なジャンルです。

選考委員の村上龍氏や宮本輝氏の、「文章は上手いけれど、なに?」みたいな「選評」に、私も同意します。

芥川賞を沼田氏と最後まで争ったのは、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1750.html" target="_blank" title="今村夏子">今村夏子</a>氏の『星の子』です。これはKindle版で読みました。

昨年の候補作『あひる』もそうですが、今村氏の文章って、子どもの作文みたいに平易でスイスイ読めます。

しかしまた、子どものように無邪気で不気味ですね。いや〜な雰囲気は、今回も健在でした。

本日の読書3つ目は、「文学界」9月号に収載された、沼田真佑氏の芥川賞受賞第一作『廃屋の眺め』です。

これは、読みやすかった。しかも短編で、あっという間に読めました。ただ、結末がなんとも微妙。

沼田氏って、毎日なにか文章を書くようにしているそうで、受賞後インタビューでこう言ってます。

「書かない日があると、書くのが嫌いになりそうなので怖くて、毎日筋トレのつもりで書いています」

あ、そうそう、それそれ。

私も毎日ブログ書いてて、その「苦行」を何て表現したらいいのかと思ってましたが、そうか、筋トレか。

「なんなら」の用法

朝からお墓参りをすませ、午前中は部屋の片付けなどして、なんなら午後から炎天下をサイクリングしました。

それもこれも、夕方のビールを旨くするための仕込みです。なんなら今年初めての鰻もいただきました。

こんな感じの「なんなら」の誤用を、ネットでよく目にしますね。誤用なんだけど、なんなら嫌いじゃない。

辞書で「なんなら」を引くと、その意味は2つ書いてあります。

(1)もしよければ。「なんなら私の方からお電話しましょうか」

(2)もしイヤなら。「ビールがなんなら日本酒にしましょうか」

面白いですね、正反対の気持ちを同じ「なんなら」で表すとは。外国人には聞き分けが難しそうです。

たとえば接待の酒席を始めるとき、「お飲み物はビールでよろしかったですか」などと店員に尋ねられた際に、

(1)相手が日本酒好きと知ってて、「なんなら日本酒にしましょうか」(日本酒から始めてよければ)

(2)相手がビール嫌いと知ってて、「なんなら日本酒にしましょうか」(ビールを飲むのがイヤなら)

冒頭に書いたような誤用は、それどころか、とか、さらに言うと、のような意味で使われているようです。

ネットから拾ってきた用例には、「彼女とは何でもないよ。なんなら手もつながなかったし」なんてのもある。

なんなら=もしよければ→もしよければさらに言わせていただきますが、みたいな変化なのかもしれません。

それにしても、ひつまぶしが旨かった。なんならビールも。

本を読む時間

この時期、診療の待ち時間が長いです。患者さんの待ち時間じゃありません。私の待ち時間です。

つまり、患者さんが少ないのです。人間がいちばん健康的な季節なのでしょう。そう、思っておきます。

診療の合間に何をして時間をつぶすか。流行り物「ハンドスピナー」を買ってみましたが、まあ、つまらない。

ネットを見たり、細切れで読めるような本を読んだりもしています。いま診察室に置いているのは、

『図25枚で世界基準の安保論がスッキリわかる本』(高橋 洋一著)

『謎の漢字』(笹原宏之著)

高橋氏には最近、露骨に政権寄りの発言が多くて、ちょっとイヤですね。

それよりも面白いのは漢字の本。たとえば、「謎」という字をよく見たら、しんにょうの点がふたつある。

これまでの人生で、私はたぶん、この字のしんにょうの点は、ひとつしか書いてこなかったような気がします。

(追記:表示環境によっては、点がひとつのしんにょうに置き換わってますね)

この本の受け売りを書き並べていけば、ブログも捗(はかど)りますね。で「捗」の字。

旁(つくり)の「歩」の部分の、右下の点がない。知らんかった(フォントによっては点が登場しますが)。

もともと「歩」には右下の点がなかったそうです。

自宅でいま読んでいるのは、2冊。並行して2冊読んでいる理由は、1冊だけだと根気が続かないからです。

『佐藤慶太郎伝』(斉藤泰嘉著)は、「石炭の神様」と言われた人物の話。九州の人なので馴染みもあります。

『医者という仕事』(南木佳士著)の著者は、芥川賞作家で医師。私より一回り年上ですが、考えが近い。

読みたい本は山ほどありますが、全部読むには時間が足りません。

でも、齋藤孝氏のように速読をしようとは思いません。単に情報を得るための読書じゃないからです。

それは映画やドラマやドキュメンタリーでも、あらすじだけ聞いたのではまったくつまらないのと同じです。

藤井四段20連勝の余談

将棋の藤井聡太四段が、史上最年少でプロ棋士となって以来、デビュー戦から負けなしの20連勝中です。

ニュースを聞いていると、「四段」のことをいつも、「よんだん」ではなく「よだん」と発音しています。

「よだん」が正式な言い方なのかもしれません。でも私には「よんだん」の方がしっくりくるのですが・・・

NHKの「日本語発音アクセント新辞典(2016)」で確認してみると、

(1)階段などの段は、四段=「よんだん」

(2)段位のときには、四段=「よだん」

つまり、四つの段 “four steps” なら「よんだん」、四つ目の段 “fourth rank” だと「よだん」、てこと?

と思って辞書を引いたら、(2)は “fourth-dan rank” とか、 “fourth dan” などともありました。

それはともかく、日本語の数詞の発音は、難しいものです。

「一・二・三・四・五」は、音読みでは「いち・に・さん・し・ご」、訓読みなら「ひ・ふ・み・よ・いつ」。

ところが具体的にモノを数えるとき、音読みと訓読みが混在してくるからややこしい。

階段の段数なら「いち・に・さん・よん・ご」なので、「四」だけ訓読みです。

一般的に「四」の読みは、「し(死)」を避けたいためか、訓読みになることが多いですね。

「一人・二人・三人・四人・五人」だと、「ひと・ふた・さん・よ・ご」なので「一・二・四」が訓読み。

「一皿・二皿・三皿・四皿・五皿」では、「ひと・ふた・み・よん・ご」なので「一・二・三・四」が訓読み。

ただし伝統的には、「四皿」は「よさら」とも言うし、「五皿」は「いつさら」と言ったりもします。

「四」を「よ」とだけ読む言葉は、「四年」「四人」「四時」などあまり多くなさそうです。

「四」を「し」と読むものも「四角」「四分咲き」など少なく、「よん」と読むものが圧倒的に多いようです。

歴史的背景や変遷があるんでしょうけど、ホントにややこしい規則(または慣用)ですね。

日本人でもわかりにくいのに、日本語を学ぼうとしている外国人には、すごく難しいと思う。

割愛問題

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1915.html" target="_blank" title="断捨離">断捨離</a>の苦手な私なので、書斎を地道に片付けていると、どうしても捨てがたい物品が出てきて困ります。

長年ホコリをかぶって廃れていたモノなのに、捨てようとすると愛着がよみがえり、逆に拭き上げたりします。

ゴミ袋に入れる前にしばらく眺め、なで回しながら在りし日を偲び、泣く泣く割愛するのです。

この「割愛」という言葉は、大切なモノを手放す切ない思いを、よく表現していると思います。

当ブログでも、紙面の都合で、本当は書きたいエピソードや裏話などを割愛することが、しばしばあります。

かつて勤務していた大学を移籍した際には、異動先の大学から異動元の大学へ「割愛願い」が出されました。

「そちらの優秀な文部教官を手放して、私どもにお譲りください(割愛してください)」というお願いです。

移動元の教授会等で「割愛承認」が出て初めてその人事異動が認められるという、古くさくて面倒な規則です。

最近ではもう、そのようなシステムはなくなったとも聞きますが、わかりません。大学って、考えが古いので。

最近、一般の会話やテレビ番組等で、「割愛」を間違った意味で使う人が増えていることが問題です。

少し前のデータですが、文化庁による平成23年度「国語に関する世論調査」によると、「割愛する」とは、

(1)「惜しいものを手放す」17.6%

(2)「不必要なものを切り捨てる」65.1%

だったそうです。(1)が本来の「割愛」であり、(2)は単なる「断捨離」でしょう。

私の書斎整理はまさに、割愛の連続です。だからはかどらないのです。