「異次元の少子化対策」とは

「異次元の少子化対策に挑戦する」と、岸田首相が年頭の記者会見で述べました。

これまでの政権が成し遂げられなかった難題に、自分が抜本的な対策を打ち出すという意気込みのようです。

ぜひ、思う存分やっていただきたいですが、期待半分です。「異次元の」と言うほどの手を打てるのかどうか。

異次元というからには、前例を踏襲せず、大胆で、「非常識」とさえ思えるほどの対策なのでしょうか。

具体的には、子育て家庭への支援と女性の働き方改革の推進が柱のようです。

でもそんなことは何十年も前から叫ばれ続けてきたことで、いま必要なのは、かけ声ではなく具体策です。

そしてその具体策が、異次元だというのですが、ちょっと想像がつきません。

18歳までの医療費や教育費を完全に無料化する程度では、異次元とは言えません。低次元です。

母親が子育てで働けない家庭を経済的に支援するのではなく、女性が働けるようにする策を考えるべきです。

同時に、子育てをしながら働く女性を抱える企業をも、国が支援する仕組みを作る必要があるでしょう。

さらに、実際に子どもがたくさん生まれるような作戦を立てるべきです。

言葉は悪いですが、「産めば産むほど得をする」ような制度(税金や年金)を作るのが効果的だと思います。

ハンガリーのように、母親の所得税を免除するのも効果的です。異次元って、そういうことでしょう?

第8波は、かなり過小評価していることを考慮すべきです

「はい、年末です。事件ですか、事故ですか」

そんな感じでやっております。年末年始の連休に入り、戸惑いながら1日ずつ消化しているところです。

「緊急事態宣言」下に息を潜めていた2年前とは真逆の、「ウィズコロナ」への茨の道に苦しむ1年でした。

欧米のように割り切る勇気は無く、中国のようなコトもできない、日本流の「中庸」はしかし悪くないのかも。

新規感染者数の棒グラフは、そろそろピークを迎えそうな勢いに見えますが、そんなのアテにはなりません。

以前と比べて、感染者の把握が圧倒的に不十分・不正確だからです。

まず、検査キットで自己検査した感染者の実数が、どれほど報告されているのか疑問です。

濃厚接触者が高熱などを発症した場合、もはや検査すらしないかもしれません。これも報告数には入りません。

でもそれで良いと思います。

親が感染した後に幼い子どもが発熱したとき、いちいち検査して確認する意味があるとは思えません。

幼いお子さんの場合、親との密着が続くので一蓮托生です。どっちみち、いつか感染すると考えましょう。

いや、インフルエンザや他の疾患の鑑別のためには、やはり検査が必要じゃないかと、厳密に言えばそうです。

ですが私は、状況証拠がコロナを示している方には、わざわざ検査のための受診を求めたりはしません。

そのように私自身が敢えて検査しないケースが増えているので、国への報告数なんてアテにはならないのです。

修学旅行を前に、迫り来る第8波

新型コロナの新規感染者数が、北海道で初めて1万人を超え、東京でも2カ月ぶりに1万人を超えました。

全国では10万を超え、これも2カ月ぶりの多さ。熊本でも今日1000人を超えました。これも9月以来です。

つまり、ほぼ全国的に、2カ月前の第7波終盤のレベルにまで戻ってしまったわけです。

先週「就学前検診」に行った小学校に、今日は「修学旅行前検診」に行ってきました。対象は6年生。

学問する立場に「就く」のが「就学」なら、学問を「修める」のが「修学」。

ですが私の子ども時代を思い出すと、修学旅行は卒業旅行にも近い、言わば「終学旅行」でした。

今年の修学旅行は、今月28日〜29日の1泊2日。長崎旅行です。コロナ第8波の動向が、とても気になります。

昨年はコロナのために延期され、ついに卒業前の2月下旬に、日帰りのグリーンランド旅行となりました。

この3年間、子どもたちの学校行事はズタズタです。

感染者が激減して、「来年こそは」と期待が膨らんだのは、ちょうど1年前でした。

ところが年が明けていきなり第6波が到来。しかしそれも7月からの第7波に比べたら屁みたいなものでした。

ヒタヒタと迫りつつある第8波は、さらにもっと巨大な波になると予測する専門家もいます。

波が大きくても人々の行動制限はされず、なんとか耐えながら無理くり「ウィズコロナ」に向かうのでしょう。

コロナ以外の医療への影響が最小限であることを願うばかりです。あと、修学旅行が無事でありますように。

「思い込み」の怖さ

通園バスに5時間も取り残された3歳の女の子が、熱中症で死亡した事件。痛ましすぎて言葉もありません。

車内の確認を怠り、担任は欠席と思い込み、なおかつ保護者の連絡漏れだと思い込むという、ミスの連鎖。

こういう事件を聞くと、職業柄、過去にあちこちで起きた「患者取り違え手術」事件を思い出します。

予定されていた2件の手術の患者を、手術室に入る過程で取り違え、そのまま手術してしまった事例です。

確認ミスがいくつも重なって起きたわけですが、キーワードをひとつあげるなら、「思い込み」でしょう。

どんな職場でも、慣れた作業では確認作業がだんだんと形骸化し、時には誤りを見逃すかもしれません。

通常はここでダブルチェックが機能し、別の誰かが誤りを発見して事なきを得るわけです。

しかし最初の確認ミスは単なるミスではなく、それは「1回確認済み」のお墨付きを与えることにもなります。

さらに別の誰かがそのミスを見逃してしまうと、それはダブルチェックまでもスルーしたことになります。

複数の者が関わっていけばいくほど、その誤った「確認済み」が二重三重に「補強」されてしまいます。

誰かが気付いて声を上げて間違いを指摘すれば、事なきを得ることができるでしょう。

しかしたとえ疑念を抱いても、十分に確認済なのだからと思い込むことで、スルーしてしまうかもしれません。

「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-2932.html" target="_blank" title="ダブルチェック">ダブルチェック</a>」は必要だとは思いますが、それを信頼しすぎてはなりません。油断の元です。

「ダブル」というと聞こえはいいですが、1人の責任が「半減」するので、緊張感が低下してしまうのです。

「みなし入院」の入院給付金カットへ

「みなし入院」に対する入院給付金について、保険会社各社が見直しを検討しているようです。

支払い対象を高齢者など重症化リスクが高い人などに限定するようで、一見して制度改悪にも思えます。

しかしそもそも、みなし入院という特例を認めた経緯やその趣旨、意味を考えなければなりません。

コロナ禍の初期、感染拡大を防ぐために、「感染したら全例入院」させていた頃がありました。

やがて病床不足(ひっ迫)等を理由に、病院の代わりに宿泊施設での療養を行うようになりました。

さらに宿泊施設の不足もあって、軽症であれば自宅療養も認められるようになりました。

そして今では中等症であっても、入院困難のために自宅療養を余儀なくされている方も、おおぜいいます。

本来入院させるべき者を、医療提供側の理由で自宅等で過ごさせるのだから、みなし入院なわけです。

保険会社の負担が大きいから全員には入院給付金は支払えないとするのでは、理屈が通りません。身勝手です。

しかしよく考えると、感染者全員に入院が必要という前提が、とっくに崩れています。

ほとんどの自宅療養者は、病院が満床だから入院できていない状態ではありません。入院が不要なのです。

その意味では、みなし入院の考え方がすでに過去のものなのです。

ただ、一定期間の自宅療養を強制されることに対しては、何らかの「補償」があっても良さそうなもの。

入院給付金をいきなり全額カットするのではなく、コロナ特例で半額支給するなどの妥協案はないのですかね。

弔意は強制しないが経費は徴収する

安倍元首相の「国葬」の経費として、2億5千万円を支出することが閣議決定されました。

ある程度の規模の葬儀が行われることは当然としても、国費からの全額支出には賛否あるでしょうね。

政府は「国民に弔意を強制していると誤解が生じるのは避けたい」と、オカシなことを言ってます。

弔意を伴わない葬儀ってあるんですかね。たとえ弔意はなくても、経費の負担は強制してるわけですけど。

「コクソウ」の同音異義語は意外に少なくて、よく使う言葉だと国葬の他に「穀倉」ぐらいしかありません。

そして「穀倉地帯」といえば、ウクライナですよね、地理の知識で言うなら。

辞書には「哭愴(嘆き悲しむこと)」とか「国喪(国民全体の服する喪)」という見慣れぬ言葉がありました。

それなら、「哭葬」とか「酷喪」なんて言葉があってもよさそうな気がします。

あるいは、「克喪」「刻葬」なんてのも、なんか意味ありげです。

元首相の殺害事件は、「旧統一教会問題」というパンドラの箱を開けることになりました。

それを容疑者の「功績」だと言うのは甚だ不謹慎で不適切ですが、しかし確実に大きな影響を残しました。

関係した政治家が次々に明らかになり、旧統一教会問題は広がり続けています。

そんな時でも、厳粛な葬儀がしめやかに営まれれば、強制されずとも自然と弔意を感じるのが日本人です。

国葬や弔問外交は、国民をクールダウンさせ、諸問題を沈静化する役割があるのかもしれません。

つい最近まで「統一協会」かと思ってました

大学に入学した頃の私は、右も左も分からない「ノンポリ」な人間でした。昭和54年(1979年)のことです。

そんなウブな新入生が最初に受ける洗礼は、新歓コンパの一気飲みと、政治・宗教団体からの接近でした。

共産党系の団体に所属する先輩方は、基本的に「市民目線」なので親切で面倒見が良く、常識的で穏やかです。

彼らが私たちに、警戒するようにと口を酸っぱくして教えたのは、「反共」団体である「勝共連合」でした。

そしてその団体が学内で活動している組織「原理研」には、決して近寄ってはならぬと言い聞かせられました。

勝共連合も原理研も、実態は「世界基督教統一神霊協会」(当時)でした。

日本での黎明期には、笹川良一・児玉誉士夫・岸信介という、いかにもな人たちが関わっていたようです。

「教会ですらなく協会だからね」とかつて教えられましたが、通称は「統一教会」という不思議な団体です。

私は全く存じませんが、統一教会によって人生を狂わされた人は大勢いることでしょう。

今回はその事実が飛躍して、岸信介の孫である安倍晋三・元総理大臣に、恨みの銃弾が向けられたわけです。

容疑者のとった行動は、いかなる理由があろうともアウトですが、事件の背景はもっと知りたいところです。

メディア(とくにNHK)の報じ方に、統一教会に対する微妙な遠慮を感じてしまうのは、なぜなのでしょう。

日本の政治・社会の中に今なお、迂闊に触れてはならない深い闇があるのでしょうか(陰謀論)。

「痛恨の極み」

安倍元総理大臣の悲報に接しては、多くの方が口にするように「痛恨の極み」としか言いようがありません。

どんな悪党の凶行であっても許されませんが、こんな素人が易々と遂行できたことがとくに悔やまれます。

どんな政治的理由があっても暴力は認められませんが、単なる個人的恨みによる犯行だったとは悲しすぎます。

この事件がどうして防げなかったのか、メディアが力を入れて報じています。更なる詳細な分析に期待します。

しかしそれ以上に、安倍氏の功績や人物像、思い出についても、今日の番組は時間を割いています。

山口県出身の私は以前から、安倍晋三氏の父親である安倍晋太郎氏の代から、応援していました。

私の母校(山口高校)の同窓会長は、晋太郎氏でした。同窓会名簿の題字は、岸信介氏によるものでした。

その晋太郎氏が総理に選ばれなれなかった、いわゆる「中曽根裁定」では、とても悔しい思いをしました。

たぶん、竹下氏よりも「大物」の晋太郎氏の本格政権を後に回したのだろうと、そう考えて納得していました。

実際、ポスト竹下は晋太郎氏と目されていたのですが、病に倒れ、総理の椅子に座ることが叶いませんでした。

それから15年後。晋三氏の総理就任は本当に嬉しかった。のですが病に倒れ、しかし見事に復活。

ついに、史上最長政権を樹立した大総理となりました。功罪ありますが、歴史に残る人物と言えるでしょう。

だからこそ、今回「小物」に「恨み」で殺害されたことが、本当に悔しいのです。

享年は奇しくも、父晋太郎氏と同じ67歳でした。ご冥福をお祈りいたします。

安倍元総理大臣が撃たれて死亡

安倍元総理大臣が、奈良市で白昼、演説中に銃で撃たれて亡くなりました。

今後さまざまな分析や論評が行われるのでしょうけど、「あっけなさすぎ」というのが私の第一印象です。

良かれ悪しかれ、安倍氏は今後も日本の政治に大きな影響を及ぼし続けると考えられていた大人物でした。

「令和の妖怪」にさえなりかねないと私は思ってました。それがこんな形で潰えるとは、なんともあっけない。

容疑者の背後関係は不明ですが、おそらくテロでもプロでもない。素人の凶行とするならよけいにあっけない。

どうしてその程度の犯行を、SPや県警の警察官らは防げなかったのでしょう。警護するにも油断しすぎです。

いかにも一般人だから警戒していなかったのか、飛び道具を持って近づくこと自体を想定していなかったのか。

手を尽くしても救命不能だった致命傷を与えたのは、手製の銃による2発。それがいかにもあっけない。

心臓(左心室)を損傷していたのであれば、多量に出血するし、何をやっても有効な心拍は再開できません。

大量の輸血で救命しようとするうちに、全身の血管や臓器が悲鳴を上げ始めたらもう、打つ手なしです。

スマホに「安倍氏が撃たれた」との衝撃的な速報が入ったと思ったら、すぐに「心肺停止」、やがて「死亡」。

今日は展開が早すぎて、咀嚼する時間もありませんでした。ご冥福をお祈りいたします。

「あおり運転」への厳罰は当然

東名高速のあおり運転死傷事件のやり直し裁判では、危険運転致死傷罪による懲役18年が言い渡されました。

弁護側は、事故の原因は衝突した後続トラックだと主張していました。

これは線路に人を突き落として事故は列車が原因だと言うのと同じで、到底納得できる理屈ではありません。

むしろ、命にかかわる事故につながってもかまわないという、未必の故意による殺人罪にも匹敵する重罪です。

この事件の後に道路交通法が改正されて「あおり運転罪」が創設され、「危険運転」の範囲も拡大されました。

これはちょうど、福岡での飲酒運転事故をきっかけに道交法が改正され、罰則が強化された件と似ています。

自動車は、運転者次第では「走る凶器」となります。それを故意に凶器として使うことは、ほぼ殺人行為です。

悪質なあおり運転や飲酒運転に起因する死亡事故は、殺人事件に準じて扱ってしかるべきでしょう。

私はあおり運転などしたことはありませんが、無理な車線変更の車などにイラッとすることは、よくあります。

その怒りを抑えられるか、それとも報復行為に及んでしまうのか、それが犯罪者となるかどうかの違いですね。