算数の応用問題

全国学力テストのことを<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-700.html" target="_blank" title="先日書きました">先日書きました</a>が、実際に応用問題を見てみると、なかなか面白いですね。

今日は、小学校6年算数の応用問題(B問題)から、とくに「応用力」が試される、良問をご紹介します。

全5問のうち、第1問の(2)番の設問です。

実際の問題文は冗長なので、要点だけ書くと、次のようになります。

遊園地で乗り物に乗る計画を立てたところ、乗り物券が15枚必要になった。いちばん安い買い方はどれか。

(1)100円券を15枚買う

(2)1000円の11枚つづり券を1枚と、100円券を4枚買う

(3)1500円の乗り放題券を買う

出題者(国立教育政策研究所)の模範解答は(2)です。

しかし、当初の計画通りの15枚で済むわけがないでしょう。

こどもというのは必ず、「もう少し」遊びたくなるものです。

最初に買った15枚を使い切ったあと、100円券を何枚か追加購入する羽目になることは、目に見えてます。

その意味で、真の「応用力」を評価するなら(3)でしょう。(2)は応用力不足。(1)は官僚体質。

応用力不足か?

4月に実施された全国学力・学習状況調査(<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-205.html" target="_blank" title="全国学力テスト">全国学力テスト</a>)の結果が、先週公表されました。

今年もまた「基礎はいいが、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-255.html" target="_blank" title="応用力">応用力</a>が不十分」との結論。毎年のことです。

新聞はすぐに「どうして応用力が伸びないのか」などという論調で書き立てます。これも毎度のこと。

しかし私に言わせれば、基礎と応用を同列に評価することが、そもそも間違っているのです。

A問題(基礎問題)は、知識を問うものであり、知識量に比例して得点できるように出題されます。

学校で教える範囲内で評価するので、よく勉強した子なら、100点満点が取れるはずです。

平均得点が62〜77点となった今年の出題は、ちょうど良い難易度だったと言えるでしょう。

B問題(応用問題)は、知識を引き出し、統合し、問題解決へと向かう能力を問うものです。

応用は無限の広がりを持つものであり、簡単に高得点が取れるような出題では、評価に役立ちません。

平均得点が42〜68点となった今年の出題は、これもまた良問だったと言えるのではないでしょうか。

A問題とB問題では、評価のゴールが違うのです。その平均点に差がついて当然です。

点数だけを見て「基礎は身についているが応用は苦手」と評価すること自体が、ナンセンスだと思います。

完璧主義

「グズの人にはわけがある」(リンダ・サパディン、ジャック・マガイヤー著)という本を買いました。

この本では「先延ばし癖」のある人のことを「グズ」と呼んでおり、それを6つのタイプに分けています。

私はそのうちの「完璧主義者」に近いと思いました。

完璧を目指そうとするあまりに、いつまでたっても完成しない、そんなことを繰り返してきたからです。

こどものころ、夏休みに入るとまずやったことは、「夏休みの計画」を立てることでした。

休みが40日も続くので、嬉しくてしかたがありませんが、その気持ちを引き締めるのが「計画表」です。

「夏休み帳」をいついつまでに何ページまでやって、絵をかいて、工作をして・・・

しかし結局、絵はお盆過ぎに殴り描きし、工作は8月末の突貫工事になっていました。

中学以降になると、各科の問題集をどの日にどこまでやるか、綿密な勉強の計画を立てました。

完璧な計画を立てるためなら、勉強など後回しにしてもかまわない、そんな気持ちさえありました。

いま先延ばししていることと言えば、たとえば<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-443.html" target="_blank" title="書斎">書斎</a>の片付けでしょうか。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-227.html" target="_blank" title="断捨離">断捨離</a>ができない性格に加えて、どうせなら完璧に整頓しようと思い、構想を巡らし続けて2年はたちます。

センター試験廃止

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-473.html" target="_blank" title="大学入試センター試験">大学入試センター試験</a>の廃止も含めた、抜本的な大学入試改革の導入議論が始まったようです。

センター試験と言えば、その前身は「共通一次試験」であり、私はその第1回目を受験した学年です。

私もそうでしたが、試験制度が大きく変わるとき、現場(受験生、学校など)は大混乱します。

高校在学中に複数回挑戦できる「到達度テスト」を導入する方針のようですが、私は反対です。

「現在のような一発勝負の選抜試験は好ましくない」という考え方には一理あります。

受験回数が増えれば、運不運に影響されず、学力の正しい評価につながるというメリットはあるでしょう。

しかし受験生は、よりよい成績獲得を目指して、複数回の試験にそれぞれ全力投球することになります。

実質的な「受験期間」が長くなり、高校生の負担は増えるだけでしょう。

安倍首相は「大学入試に過度のエネルギーを集中せざるを得ないことが、わが国の教育の問題」と言います。

しかし到達度テスト導入によって「長期間集中せざるを得ない状況」になることに気付かないのでしょうか。

「一発勝負の試験は好ましくない」というのは、「試験とは知識を問うもの」という観念の現れです。

運不運や体調によって左右される程度の知識など、その人の身についたモノとも言えません。

学力による選抜を行う限り、試験制度をどのように工夫しても、それは抜本的改革にはならないと思います。

問題冊子持ち出し

今年もセンター試験が行われました。

昨日は、試験時間中に問題冊子を会場外に持ち出し、予備校関係者に手渡すという、不正行為が起きました。

その目的は、予備校が「模範解答を早く作るため」だとされていますが、本当にそうだったのでしょうか。

報道はされていませんが、実はこれには、もっと深い不正があったかもしれません。

(以下想像)

持ち出された問題冊子は、会場近くの路上のバンで待機する「特別チーム」に渡されたのです。

彼らは迅速に問題を解き、その解答を、しかるべき「顧客」に発信します。

顧客である受験生は、その情報を特別製の腕時計の液晶画面で読み取り、楽々と解答することができます。

(想像終わり)

センター試験とは言いますが、会場で監督をしているのは、急遽かり出された大学教官です。

余計な仕事を担当させられて、迷惑している人たちです。早く終わらんかな、とばかり考えているのです。

私の試験監督としての体験談は、ちょうど<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-162.html" target="_blank" title="1年前">1年前</a>と<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-70.html" target="_blank" title="2年前">2年前</a>のブログにも書いた通り。

「試験を時間通りにスムーズに進行させること」だけを考えて、監督していました。

なので、試験時間中のトイレ退室などという「イレギュラーな事態」が起きると、とてもイヤなのです。

そんな受験生には「さっさとトイレに行って、さっさと帰って来なさい」と言いたくなるのです。

彼らが<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-78.html" target="_blank" title="不正">不正</a>をしようとしているなんて、考えたくもないのです。

今回の事件で、問題冊子の持ち出しに気がつかなかった試験監督の気持ちは、よく理解できます。

知識と応用

入学試験などの問題点を語るとき、よく「知識偏重から応用力重視へ」といった言い方がされます。

応用の方が上位で知識は格下のような表現です。はたしてそうなのでしょうか。

(1)知識と応用は切り離せるのか

たとえばある病気について勉強するとき、最初に病気のメカニズムを知る(=覚える)ことから始めます。

そうすれば、症状や検査法、治療法などを理解しやすく、それらも覚えやすくなるからです。

そのように、覚えた知識を有機的に結びつける作業こそが、応用だと思います。

知識が多い方が応用範囲も広がり、知識のない領域では応用のしようもないのです。

(2)知識が教養の基礎となる

テレビなどで、歴史や古典などについての話題が出たとき、ふとそれを懐かしく感じることがあります。

記憶の片隅にある受験知識が、数十年ぶりによみがえるのです。

懐かしさからやがて、ちょっと本でも買って勉強してみるか、という気になります。

大人になってからの勉強は、好きでやるものだから、楽しいものです。

年齢とともに記憶力は低下するのに、「若い頃に覚えたこと」は、妙に記憶に残っています。

若い頃の記憶は、定着しやすいのかもしれません。

であればなおさら、若い頃に知識を詰め込む受験勉強も、捨てたものではありません。

全国学力テスト

全国学力テストが、小学6年と中学3年生を対象に、先週行われました。

賛否両論あるこのテスト。50年以上を経てなお、紆余曲折は続いているようです。

(1)導入期(1956年~1964年)

日本を支えるのは教育である、おおいに競争すべし、という高度成長期でした。

(2)中断期(1965年~2006年)

「過度の競走を招く」との日教組らの反対によって、テストは中断。成長の反動か。

(3)復活期(2007年~2009年)

日本人の考え方が成熟し、バランス感覚が出てきたのかと思っていたら・・・

(4)混迷期(2010年~)

民主党政権下では、全体の約3割の学校のみを対象とした「抽出方式」となりました。

コスト削減のため、というのは言い訳です。日教組の影響がまた強まったとみるべきでしょう。

ところで、全国学力テストは文科省の委託事業です。実際に行っているのは民間企業。

問題の作成から採点、集計だけでなく、学習環境調査結果などの情報までが、民間企業に握られるのはどうなのか。その点は問題視されています。

たとえば小学6年のテストは、2007年以来ずっと、ベネッセコーポレーションが実施しています。

文科省の入札に応じる企業も、2008年以降はベネッセだけになりました。

ベネッセにはどんどんノウハウが蓄積し、他社が入り込む余地がなくなっているのでしょうか。

そのうちベネッセから、「全国学力テスト対策問題集」とかが出たりして。

エヘン虫

受験の季節になりました。

そこで今年も、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-70.html" target="_blank" title="センター試験">センター試験</a>の試験監督をした時の思い出話をひとつ。

試験中、部屋に響くのは鉛筆のカツカツいう音と紙のこすれる音、ときおり受験生の咳払い。

異様な静寂に包まれ、受験生でなくても、その場に居る者はみな緊張が高まっています。

学生は問題を解くことに集中しているので、まだマシです。咳払いも遠慮無く行います。

ところが試験監督はそういうわけにはいきません。学生を妨げてはならないからです。

咽頭喉頭部に「エヘン虫」がたまってきても、小さく控えめな咳払いでしのぎます。

そうこうするうちに、変な欲求にかられます。

思いっきり大きな声で、「とりゃあ~」とか「せいやあ~」とか叫んでしまう自分を空想してしまうのです。

私の絶叫のあと、一瞬の間があって、「びっくりしたぁ」と受験生たちが爆笑、部屋全体の雰囲気がなごみ、いい意味で緊張がとれて、何事も無かったかのように試験が粛々と進行していく・・・

なんてわけにはいかないでしょう。

私は取り押さえられ、翌日の新聞紙上に踊る見出しはおそらくこんな感じ。

「試験監督絶叫し受験生混乱 『エヘン虫』に耐えきれず」

そんな空想をしているうちにようやく時間が来ます。

「鉛筆を置きなさい」と、必要以上に大きな声で言ったりして、私のノドのイガイガもほどけるのです。

化学語呂合わせ

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-120.html" target="_blank" title="レアアース">レアアース</a>で思い出しましたが、かつて覚えた化学分野の語呂合わせは、実生活には役に立たないけれども、なかなか味がありました。

まず元素名の覚え方。人によって多少言い回しが異なるようですが、私の場合

「水兵リーベ僕の船、ソー曲がるシップスクラーク・・・」

(H, He, Li, Be, B, C, N, O, F, Ne, Na, Mg, Al, Si, P, S, Cl, Ar, K,・・・)

戦前からある覚え方なのでしょうか、いきなりドイツ語が登場します。

「リーベ」=「愛する」という意味の動詞です。

でも、主語が「水兵」という3人称なら「リーベ」ではなくて「リープト」か、複数でも「リーベン」のはずだけど。もしかして「わたくし水兵は」という1人称なのか。

この疑問、30年以上未解決のまま現在に至っています(誰か教えてください)。

イオン化傾向の語呂合わせも、結構メジャーですね。

「貸そうかな、まああてにすな、ひどすぎる借金」

(K>Ca>Na>Mg>Al>Zn>Fe>Ni>Sn>Pb>H>Cu>Hg>Ag>Pt>Au)

今でも、「ひどすぎる!」と口走ると、つい「借金」と付け加えたくなるのは私だけ?

炎色反応の覚え方も似ています。

「リアカー無きK村、どうせ借るとするも、くれない馬力」

(Li赤, Na黄, K紫, Cu青, Ca橙, Sr紅, Ba緑)

どこですか、K村。そうとう貧乏。

カンニング

いつか韓国でも起きた、ケータイを利用したカンニング事件が、日本でも起きました。

試験中に、監督の目を盗んでケータイを操作するだけでも至難の業なのに、発信内容はけっこう詳細で長文です。

よほど巧妙に入力したか、超人的に入力が速いか、あるいは特別な装置を使ったのか、いずれにしても監督体制を強化する必要はありそうです。

ハイテク化が進めば、メガネに仕込んだカメラからの画像をネットに配信するとか、普通のデジタル腕時計に見えるけど文字情報を受信できる装置であるとか、次々に出てきそうです。ていうか、すでに売られているかもしれません。

こうなってくると、試験会場に妨害電波を出すか、それが問題なら試験室を電磁的にシールドするとか、特別な対策が必要になるかもしれません。

しかし考えてみれば、入学試験で評価する学力とは何なのか。

人工知能を脳に埋め込んだ天才がいたとすると、それは個人の能力でありカンニングでとは言わないでしょう。

頭に埋め込んだものが、ネットとつながった通信装置だったとしても同じこと。

ならば、体内に埋め込んでいなくても、ネット情報にアクセスできるデジタル端末を、「からだの一部のように」自在に操れるなら、それもある意味個人の能力と言えなくもない。

そこまでを含めて個人を評価するような、そんな試験もアリかもしれません。