好きな勉強、好きな本

医学でも宇宙でも歴史でも数学でも昆虫でも音楽でも、いま知りたいことを勉強するのは楽しいもの。

知りたい医学知識を補強し、興味ある分野なら何にでも首を突っ込み、面白いと思った本を読む毎日です。

しかし、学校でやった勉強は、試験のため、成績のため、進学のため、という側面がありました。

勉強は手段であって、その結果何らかの目的を達成し、それがまた、別の目的のための手段となるわけです。

例えて言うなら、健全な肉体をつくるために、好き嫌いを言わず、何でもバランス良く食べるようなもの。

では、成人の肉体がそれなりに出来上がったとしたら、じゃあこんどは、何を食べる?

そりゃもちろん、好きなものでしょう。好きなときに、好きなだけ食べる。嫌いなものは、残す。

読んでる本が面白くなくなったら、途中で投げ出すので、読みかけの本が山ほどあります。

あとで興味が湧けば、また読み始めたりもします。買っただけで、まったく読んでない本も多数あります。

では、例の、又吉直樹の「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1354.html" target="_blank" title="火花">火花</a>」はどうだったかというと、純文学にしては珍しく、短時間で読了しました。

書評は控えます。ネガティブなことは言いたくないので。

書いて覚えた方がいいのか

「音読しながら書いて覚える」 そんな勉強法が効果的だと、つい最近もテレビ番組で紹介していました。

多くの感覚器を刺激しつつ覚えると、単に黙読したよりも記憶に残りやすいという、昔からある定説です。

ところが最近、書いて覚えるよりも書かずに覚えた方が記憶に残りやすいという、逆説的な話が出ています。

カナダの大学で行われた、トランプの「神経衰弱」ゲームを用いた実験の内容はこうです。

カードの絵柄と位置について、半数の学生にはメモを取らせ、残りの学生はには取らせなかった。

最終的に、メモを没収したところ、絵柄の位置をよく覚えていたのは、メモを取らなかった学生の方だった。

つまり、メモという外部記憶への記録に頼ったために、自分の脳への記憶が定着しなかったというわけです。

なるほど。それで合点がいきました。学生時代、書いても書いても覚えられなかった訳がわかりました。

覚えたい事柄を書き写すという、その行為自体に満足して、脳の記憶回路が働いていなかったわけです。

学会や講演会の聴衆には、こまかくメモをとる人と、じっと聞いているだけの人がいます。

演題の全体像を把握し、重要ポイントを的確に記憶することができるのは、後者の人だけかもしれません。

たしかに、何かを真剣に覚えるときには、手を動かすと、かえって集中できないような気がします。

得点調整は公平か

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1206.html" target="_blank" title="センター試験">センター試験</a>の採点の結果、理科の選択科目間で平均点に大きな差が出たため、得点調整をするとのこと。

旧過程の「物理1」の平均点69.93点に対し、新課程「生物」は48.39点。その差が20点を超えたためです。

試験科目によって、平均点に大きな差ができる原因は、一般的に次の2つでしょう。

(1)問題の難易度の違い

(2)受験生の学力の違い

まず、学習範囲の広い新課程と、ゆとり教育の旧課程の科目が混在し、ずいぶん難易度が異なったようです。

同じ科目どうしで比べると、旧課程の方が平均点が6点以上高く、地学に至っては18点の差がありました。

この点に関して言えば、得点調整を行うことは理にかなっているかもしれません。

しかしそれ以前に、浪人生だけが、学習範囲の狭い旧過程で受験できる規定だったことは、やはり問題です。

では、教科間の違いはどうでしょう。物理と生物とで、難易度に明らかな差があったのでしょうか。

たしかに平均点は、旧過程では物理>化学>地学>生物、新課程では物理>化学>生物>地学の順でした。

しかしこの順序は、難易度の差というよりも、その科目を選択した受験生の理系能力の違いかもしれません。

高校理科の中で、物理・化学は「理系」的、生物・地学は「文系」的な側面があります。

物理は、その原理・法則等をきちんとマスターしていれば、必ず高得点が取れる科目です。

化学は、知識を問われる部分もあるので、万一不得意な分野から出題されると、失点しかねません。

地学や生物は、さらに暗記項目が多くてリスキーなので、根っからの理系人間は選択しない科目です。

理系学力を問うのが理科の試験なら、物理を選択して高得点をとる受験生を、正当に評価すべきです。

物理と生物の間で得点差が出たから調整するなど、まったく不公平な措置だと思います。

文章問題のインチキ

先日の出題ミス事件をきっかけに、センター試験の「世界史B」の問題を眺めてみたんですが、悪問ですね。

設問はすべて、まず歴史に関する7,8行の文章を読ませ、その下にいくつかの問いが並ぶという形式です。

ところが、その問いの内容が、冒頭の文章とは実質無関係。ひどいこじつけばかりじゃないですか。

例えば、問4のBの設問は、「じゃんけん」の歴史についての、ちょっと興味をそそる文章で始まります。

「古代の中国に起源を持つとされるじゃんけんは、現在、世界大会が開かれる競技であり、・・・(後略)」

この文の「中国」という文字の下に「4」と表示された下線が引いてあり、以下のような問いが続きます。

「下線部4の国(=中国)から伝わった制度や文物について述べた文として、誤っているものを選べ」

選択肢は4つ。それぞれ、羅針盤、製紙法、養蚕、科挙に関する文です。全部「じゃんけん」とは無関係。

じゃあ「じゃんけん」どこ行ったの?って話です。結局、冒頭の文章は、設問の内容には関係無いのです。

ただ単に「中国」という言葉を、登場させるためだけの役割しかないのです。

総じてみると、世界史Bというのは結局、短い文の正誤を問う問題の羅列にすぎません。

それなのに、あたかも文章問題のような体裁をとって、設問に深みを出そうという魂胆が見え見えです。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1202.html" target="_blank" title="前にも書きました">前にも書きました</a>が、よっぽど知識偏重の問題だとは言われたくないのでしょうね。

センター試験の出題ミス

入学試験の出題ミスは、受験生の合否にさえ影響を与えかねない一大事。出題者の責任は重大です。

正解が2つあるような設問が見つかった場合、その両方を正解とみなす、という解決法がとられます。

しかし、ムダに悩んだ受験生の、時間の浪費や精神的ストレスに対しては、どうやって穴埋めしてやるのか。

昨日の<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-473.html" target="_blank" title="センター試験">センター試験</a>「世界史B」でミスがありました。渋川春海が作成した「貞享暦」についての設問です。

その設問文を、読点(、)の部分で改行して4行に分けて記載すると、以下のようになります。

(1)貞享暦は、

(2)中国『ア』の時代に、

(3)『イ』によって作られた授時暦を改訂して、

(4)日本の実情に合うようにしたものである。

出題者の意図は、「中国・元の時代に、授時暦が作られた」という知識を、問うことだったと思われます。

一方で貞享暦は、「中国・清の時代に、日本の実情に合うようにしたもの」であることもまた事実。

設問文の(2)が(3)にかかるのか(4)にかかるのかの解釈によって、『ア』の答が異なるわけです。

このような、読み方によって答が変わるような設問を作るなど、出題者の国語力に問題アリです。

この際、どうせ知識を問うのであれば、いっそのこと、もっと単純な設問にしたらどうですか。たとえば、

(問1)授時暦を作ったのは誰か。次から選べ。

(問2)授時暦ができたのはいつの時代か。次から選べ。

設問はひどく無機質ですが、求める知識は同じ。まったく誤解を与えない、率直な問い方じゃないですか。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1117.html" target="_blank" title="知識偏重">知識偏重</a>だと批判されるのを嫌ってか、問題文をヘンに長ったらしくするから、オカシなことになるのです。

いくら工夫を凝らしたところで、尋ねているのは単なる知識。ならばもっと簡潔な設問にすべきです。

知識偏重試験は悪か

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-611.html" target="_blank" title="大学入試改革">大学入試改革</a>では、なぜかいつも知識偏重を問題視します。知識を悪とでも考えているのでしょうか。

このたび中央教育審議会がまとめた答申案も、例によって「知識から応用へ」という趣旨のようです。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-255.html" target="_blank" title="知識あっての応用">知識あっての応用</a>じゃないの?ってことは、もう何度も書いてきました。

そこで今日は、新たな切り口で考えてみます。次の4グループでは、どれがいいのか。

(1)知識あり、応用力あり

(2)知識あり、応用力なし

(3)知識なし、応用力あり

(4)知識なし、応用力なし

このうち(2)がダメだと言うのなら(3)でいいのですか。結局、求められるのは(1)なんです。

それなら、一次試験で知識を幅広く問い、二次試験で応用力をみる、というやり方でいいじゃないですか。

一次と二次を合わせて、受験生の総合力を判定するのであれば、一次試験が「知識偏重」で問題ありますか。

そのかわり二次試験を、面接とか<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-893.html" target="_blank" title="小論文">小論文</a>とか、大学独自の「応用力偏重」試験にすればいいだけの話です。

それなのに中教審は、一次試験で「思考力・判断力・表現力」を評価しようなどと、勘違いをしています。

センター試験は、知識を広範・正確・公平に評価する役割に徹するべきです。

どっちみち、大学に入っても勉強は続きます。社会人になったら、もっと大事な本当の勉強が待っています。

受験勉強は、基礎知識を習得するためだけでなく、将来の勉強のためのトレーニングみたいなものです。

世界史と日本史

日本学術会議は3年前から、日本史と世界史を統合した「歴史基礎」の創設を提言しています。

今年そのカリキュラム試案が公表されたそうですが、歴史が好きになるような教科にしてほしいものです。

「縄文弥生は詳しく、中世から急ぎ始め、現代史はプリント配り終了。そんな授業を小中高と3回繰り返す」

ちょうど1年前に日経のコラムが、日本史教育の問題点をこのように表現していました。座布団1枚です。

思えば、大化の改新とか鎌倉幕府とか、情報の少ない古い時代なのに、細かく習ったのでよく覚えています。

また、戦国時代や幕末は、著名な人物が数多く登場してドラマチックなので、興味深く学んだ気がします。

しかし、授業に時間を費やしたのはせいぜい明治維新まで。大正・昭和の歴史は、ほんとに駆け足でした。

イデオロギー的な問題があって、教えにくいから「はしょった」のか、と思いたくもなります。

世界史は、あっちこっちで物語が同時進行しながらも、それらが密接に絡み合う群像劇のように思えます。

このさい日本史も、この群像劇に組み込んでしまえと、そのような発想は悪くありません。

日本が世界と無関係であった時代はなく、両方を同時に学ぶことで理解が深まることは多いです。

たとえば古代史において、日本と同時代の中国の、その圧倒的先進性には脱帽するしかありません。

なにしろ日本が縄文時代から弥生時代に移り変わる紀元前500年頃、中国では<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-903.html" target="_blank" title="孔子">孔子</a>が仁を説いていました。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-228.html" target="_blank" title="邪馬台国">邪馬台国</a>以前の、日本がまだ乱れていた時代、中国は秦が統一し、次いで<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-860.html" target="_blank" title="漢">漢</a>が建国されました。

その邪馬台国ですら、魏志倭人伝に記述がなければ、ほとんど神話に近い存在です。

中世・近世になると、日本と中国との関係もまた変わりますが、近代・現代はさらに、複雑です。

日本の内外から同時に歴史を見ていく教育は、隣国との関係改善のためにも有意義だと思います。

夏休みの宿題

8月末になって着手し、最後は父が作り直し。私の<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-664.html" target="_blank" title="夏休みの宿題の工作">夏休みの宿題の工作</a>は、毎年そのパターンでした。

吊り橋の模型を作ったのは、小学校の高学年だったでしょうか。

全長30cm程度のいびつな物体ができあがりつつあるのを見て業を煮やした父が、竹ヒゴと角材を大量に購入してきました。一から作り直すというのです。もう夕方なのに。

翌朝、登校する私が両手に抱えていたものは、全長1メートルをゆうに超える、それはそれは立派な吊り橋でした。友達はみな賞賛のまなざしでしたが、担任の先生の、やや冷たい笑顔が忘れられません。

ある年は、投入した硬貨を自動選別するような箱形の貯金箱を作りましたが、これも父が作り直しです。当時の父は自作スピーカーに凝っていた頃で、その材料が余っていたのです。

完成した貯金箱の表面には木目をプリントしたシールがびっしりと貼られ、市販品ならB級な仕上がり。少なくとも、こどもの工作には似つかわしくない雰囲気に溢れていました。

中学時代には、壁にぶつかると自動的に逆方向に進む車を作りました。

アイデアは評価してくれた父でしたが、完成度にはまったく満足できなかったのでしょう。材料を買い込んできて、作業を始めてしまいました。

そしてできあがったのは、高専の生徒が作ったのかと見まごうばかりの、精巧な模型でした。恐る恐る学校に提出すると、技術の先生に本気で褒められてしまい、とまどいました。

そのような父の、凝り性で完璧主義の血を、私が受け継いでいなかったはずがありません。

しかしまた、子どもの宿題に親が介入しても、当の本人が必ずしも喜ばないことは、私自身がよく承知しています。なので私が子どもの工作の手伝いをしたことは、記憶にある限り一度だけかもしれません。

学校に持って行かせた金峰山の模型は、誰の目にも大人が作ったとしか見えない代物でした。子どももそこそこに喜んでくれたので、救われた気がしますが、私に気を遣ってくれたのかもしれません。

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保険医協会の新聞に投稿するつもりだった原稿ですが、締切に間に合わなかったのでここに掲載しました。

医師国家試験

2月に行われた医師国家試験の合格者が、昨日発表されました。8千人近い医師が、新たに誕生しました。

私が受験したのは1985年。その前年までは春と秋に行われていた試験が、この年から春の1回になりました。

ちょうど私の学年は、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-611.html" target="_blank" title="共通一次試験">共通一次試験</a>が始まった年。試験改革の色んな荒波を、もろにかぶった学年なのです。

試験会場は、福岡の親不孝通りにあった予備校でした。おそらく水城学園か、そうでなければ九州英数学舘。

いまとなっては、どちらの予備校も姿を消し、親不孝通りの名称すら失われてしまっています。

私の頃の医師国家試験は4月上旬に行われ、合格発表は5月下旬でした。

その合否もわからぬうちに、4月から病院研修がスタートしました。無資格なので見習いみたいなものです。

しかし見習いとはいえ、診察・採血・回診準備・手術の助手・標本整理などで、多忙な日々を過ごしました。

そのような暫定研修医生活が1カ月ほど経ったころ、ようやく、国家試験の合格発表の日が訪れました。

万一不合格となると、その日をもって病院勤務は終わり、翌日から受験勉強に戻るという、過酷な運命です。

自己採点の感触で、まあ合格しただろうと思ってはいても、発表当日は、ひどく緊張したものです。

研修医仲間と、奪い合うようにして見たのは、その日の夕刊だったでしょうか。合格者名の一覧です。

探しました、「鶴原由一」の4文字を。しかし、何度見ても無いのです。

ただそこに、「鶴田由一」という、ソックリな名前は、ある。きっと誤植だろう。そうに違いない。

翌朝いちばんに、厚生省に問い合わせてみると、やっぱり新聞社のミスでした。しっかり仕事しろ、新聞社。

数学の応用問題

「全国学力テスト」の応用問題。

<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-709.html" target="_blank" title="先日は">先日は</a>小学生向けの算数のB問題について書きましたが、今日は中学生向けの数学のB問題をご紹介します。

全6問。単なる応用問題ではなく、数学の面白さをわからせようと考えられた、良問だと思います。

「身近な数学」

第1問と第3問は、日常生活で使われる、数学的な考え方を取り上げていて、取っ付きやすいです。

文句を付けるとすれば、第1問の「手首の脈拍数を1分間数えて求めます」の写真。これはダメ。

もっと指先を立てないと、脈はちゃんと触れませんよ。・・・まあそこは、目をつぶりましょう。

「謎解き」

第2問と第6問は、何か手がかりを元に、法則を見いだし、解き明かしていく問題。

整数の面白さにも、気付かせてくれます。数学好きって、けっこう整数好きなんですよね。私もそう。

「パズル」

第4問は、幾何学の証明問題。と書くと難しそうですが、じつは解くのが楽しくなる図形問題。

テレビのクイズ番組にも出て来そうです。

「マニアック」

第5問に至っては、数学好きでなければ、思いつきもしないような設問です。冒頭からいきなり、

「麻衣さんと小春さんは、学級の生徒がどのような長方形を美しいと思うかを調べることにしました」

普通そんなこと調べる? その発想が好き。