子どもの頃から私は、歩く時に足底にかかる圧力の感覚において、左右対称にこだわる性質がありました。
たとえば、奇数段の階段を上り終わった時、あと一段足りないアンバランスな感覚にどうしても耐えられず、その違和感を打ち消すために昇り終えた足とは反対の足ですぐに地面を強く踏みしめ、ようやく心の平静を取り戻していました。
このことをずっと誰にも言えずに大人になり、やがて一種の強迫性障害であると知りましたが、それほどの実害を伴っているわけでもなく誰かに迷惑をかけるわけでもなく、しかもある日、同じ症状を持つ同僚に出会ってからは不思議と左右対称がそれほど気にならなくなりました。
最近ではあのベッカムも偶数神経症だとカミングアウトしたものだから、自分と良く似た性質の有名人もいるんだと(風貌も身体能力もまったく違うけど)、むしろ稀少個性をもっていることを誇れるぐらいの気持ちになっています。
理科室の人体模型を見たときに思ったのは、肺は左右対称なのに心臓はなぜ胸の真ん中じゃなくて左側に偏ってるんだろう、という素朴な疑問です。先生に尋ねても解決せず、しばらく心の片隅に引きずっていました。
なので、胎児の内臓が最初は左右対称に形成され始め、そのカタチや位置がどんどん変わり、やがて非対称の完成形に向かうことを人体発生学で学んだときは衝撃的でした。もともと左右対称のものが、非対称になって落ち着くこともあるのだと。
のちに小児心臓外科医を志すことになったのも、先天性心臓病の発生学と病態生理に魅せられたからかもしれません。
景色や建物やすべての事物が、左右対称だとすごく落ち着きます。だから縦書きした時の私の名前「由一」は好きなのですが、名字までもが左右対称の「高木由一」には完敗です。「三谷幸喜」にだって負けています。
でもそんな左右対称のこだわりがあるにもかかわらず、記念写真を撮ると最近は、まっすぐ立っていたつもりなのにたいてい左肩が下がっています。これを私は「右肩上がり」と前向きに受け止めているのですが、骨盤や背骨や内臓から臍に至るまで、あちこちが曲がり歪んでいるのでしょうね。
医学部に入学した私に、最初に近づいて親切にしてくれた先輩たちはみな、某教会には気をつけろと教えてくれました。そのやや左寄りの方々の影響もあって、大学時代は自治会活動にも足を突っ込みました。
ところが社会人になると色々あるもので、徐々に右傾化した時期もあります。以来私は、右に行ったり左に来たり、センターラインをまたいでいまもウネウネ歩み続けています。左右対称神経症は、治り切れていないようです。
※熊本市医師会の会誌「森都医報」11月号に投稿した拙文が掲載されたので、転載しました。