高齢者の運転は、ただ制限するだけでよいのか

男に熱湯をかけられ、3歳の子どもが亡くなった事件が、先日報じられました。

この子の苦しみや無念さを思うと、私は、涙が止まりません。

残虐非道な殺人を犯した男は、最大限に厳しく罰せられなければなりません。

私など、人間ができてないものですから、この男にはハムラビ法典的な刑罰を求めてしまいます。

もちろん日本は法治国家なので、某独裁国家のような非人道的なことはできません。

被害者の人権よりも加害者の人権に配慮せざるを得ないのは、いつも感じる先進国のジレンマですね。

池袋の暴走車による母子死亡事故も、市民感情的には、厳罰でなければ納得できない雰囲気になっていました。

しかしあの事故は、熱湯男の犯行とはまったく異なり、故意に起こしたものではありません。

加齢による運転能力と判断能力と記憶力の低下が原因なのですが、加害者にはその自覚がなかったのでしょう。

そのような状況でありながら、日常的に車を運転していたことが、そもそもの問題です。

アクセルを踏んだ力の何百倍、何千倍もの力で、車はグイグイ動きます。ものすごい倍力装置です。

ヨロヨロ歩くような高齢者でも、ひとたび運転席に座れば、その車のフルパワーを引き出して走れます。

そこが怖いところですが、しかし身体能力が低下した方にとっては、むしろ車は手放せない移動ツールです。

運転能力に乏しい人ほど運転で恩恵を受けるという、これは自動車の抱えるジレンマかもしれません。

高齢者の運転を制限するよりも、誰もが安全に乗れる仕組みを備えた車の開発に、世の中は向かうべきです。