京都で起きた「嘱託殺人」事件は、どんな理由があったとしても、決して許されることではありません。
「安楽死」は、短いブログで触れるにはあまりにも重いテーマですが、知らんぷりするわけにもいきません。
少し主題がずれますが、延命措置の中断について、かつて私が心臓外科医として経験した範囲で考えてみます。
一般に、延命措置を中断すれば死亡する患者さんは、世の中におおぜいいます。それは難病に限りません。
たとえば重症の新型コロナ患者に装着されたECMOや人工呼吸器も、それなしには生きられない延命手段です。
急性疾患で、その急場さえしのげれば明るい見通しがあるなら、延命措置を講ずることに異論はないでしょう。
しかし急病でも、回復は難しいと感じながら延命治療を続けることが、実際の臨床現場ではとても多いのです。
高度な医療を提供してもなお容態が改善しなければ、医療がどんどん濃厚になり、キリがなくなっていきます。
たとえば心臓手術後に全身臓器機能の回復が思わしくなくても、簡単には諦めず、高度な医療をつぎ込みます。
気がつくと、ECMOや透析回路が装着され、血液製剤が湯水のように投与されつづける事態になります。
助かる見込みがゼロではないなら、可能な限り治療を続けようという思いが、誰の胸に内もあるからです。
その努力が実って、奇跡的に回復に向かい始めると、皆が手を取り合って喜ぶほどの幸福に包まれます。
しかしその反対に病状がどんどん悪化すると、やってるコトがすべて時間稼ぎのように、虚しく思えてきます。
多臓器不全やDICや低酸素脳症等の合併症が起きてもなお、懸命に救命措置を続けますが、ほぼ、負け戦です。
このままでは数日で心臓が止まるだろうと、わかってきます。もしも装置を止めれば心停止は、数分以内です。
主治医も家族も引き金を引けず、治療を変えずに見守ることを選択し、この状況がさらに何日か続くのです。
そんな時、私は思っていました。何も意思表示できない患者さんは、実はすべてをお見通しなんじゃないかと。
主治医や家族が自分のベッドを取り囲んで喋っていることを、黙ってぼんやり聞いているんじゃなかろうかと。
だからどのような病状にあっても、私は枕元では、絶望的なことは口にしないように気をつけていました。
今日ここに書いた延命措置にかかわる問題は、今回起きた安楽死問題とはまったく、次元の違う話です。
ですが共通することがあるとすれば、それは「希望」と「絶望」です。この機にじっくり考えたいですね。