自動運転の倫理

暴走トロッコが来るが、自分がポイントを切り替えれば誰が犠牲になるかを変えられる、という究極の選択。

この、いわゆる「トロッコ問題」は、日頃の一般的な道路交通においても遭遇し得る、身近な問題です。

とくに最近は、自動運転車のプログラムに関連して、この問題がたびたび論じられるようになってきました。

今朝の日経も、フィナンシャルタイムスの記事からの引用を取り上げていました。

しかしその前に、自動運転ではなく日頃の運転で、自分ならどうするかを考えておかなければなりません。

車を運転中、サッカーボールを追いかけた子どもが、左の路地から車の直前に飛び出してきたとします。

急ブレーキだけではとても間に合わないと思えるほどの近距離なので、思わずハンドルを切ります。

対向車がいなければ、迷わず右にハンドルを切るでしょう。では、対向車がいたらどうするか。

それがバイクか、軽乗用車か、自転車か、普通乗用車か、バスかで、自分と相手の被害がまったく異なります。

対向車がダンプカーなら、たぶん自分以外には死傷者は出ないでしょう。

しかし対向車が軽乗用車なら、しかも子ども連れが乗っていたら、正面衝突は大惨事を招きかねません。

では、まっすぐ子どもをはねた方がマシなのか。これはトロッコ問題と同様の、ジレンマです。

しかもこのような究極の判断を、瞬時にくださなければなりません。そんなことが私にできるでしょうか。

自動運転車の場合、瞬時の判断は得意です。だから、どのような選択をするかは、プログラムしだい。

メーカーがその責任を負うのがイヤなら、運転者があらかじめ設定しておくような仕様になるかもしれません。

事故に遭遇する前から、自動運転車のドライバーは究極の選択を迫られるわけです。