とりあえずビール

レストランで、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-1561.html" target="_blank" title="頼んだビールが最初に来なかった問題">頼んだビールが最初に来なかった問題</a>については、たぶん、私の頼み方が悪かったのでしょう。

最初にビールを持ってきてほしければ、「とりあえずビール」。この魔法の言葉を使えば良かったのです。

ビールの一口目は、空腹時に飲まなければ旨さが半減(または激減)すると思う私の、個人的見解です。

「とりあえず」は、「食事は後で注文するとして、さしあたって」という、場つなぎの意味で使っています。

「本来なら直接お礼に伺うべき所ですが、まずは」と言うときには、「とりあえずお礼まで」を使います。

この場合は、なにはさておき非礼を承知で、ともかく第一に礼状をしたためました、というニュアンス。

ただし、「とりあえずお礼まで」と書きながら、後で実際にお礼に参じたことなど、私は一度もありません。

その意味で「とりあえず」は、その場しのぎの意味合いが強いのかもしれません。

「とりあえず」で、真っ先に私が思い出すフレーズは、百人一首にも収載されている、菅原道真の歌です。

「このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手向山(たむけやま) 紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに」

この中で「幣も取りあへず」は、「(道祖神に捧げるための)幣(ぬさ)も用意せぬまま」の意味です。

現代語の「とりあえず」との関連が不明ですが、おそらく、同語源だと思います。(個人の意見です)

居酒屋で「ぬさもとりあえずビール!」などと言ってた時期もありますが、最近は居酒屋にも行きません。

「とりあえずビール」という名称のビールを、どこかが発売しないのかと昔から思っています。まだですかね。

「とりあえず」で商標登録を調べてみると、7件ヒットしました。しかし、ビールでの登録がありません。

まさか、まだ誰も「とりあえずビール」を商標登録していないのでしょうか。これは大変!(何が?)

医学部入試の小論文

医学部の入学試験では、しばしば小論文が課されます。しかし私はそれを、誤解していました。

テーマはたいてい、ありがちな医療問題なんだろうと、勝手にそう思っていました。たとえば昨年の、

関西医科大「高齢化社会と医療について」とか、久留米大「高齢化社会における医師の役割」のように。

ところが、もっとずっと面白い(奇抜な)課題を出す大学があることを、つい最近知りました。

順天堂大は、階段を昇っていく男性の後ろ姿と、手前には印象的な赤い風船が2つある絵を提示して、

「キング・クロス駅の写真です。あなたの感じるところを800字以内で述べてください」

東海大は、『赤毛のアン』の抜粋を提示して、

「これを読んで感じたことについて、具体的な例や経験を交えて述べてください」

杏林大にいたっては、

「うそも方便ということわざについて論じてください(60分/800字)」

医学部の入試に限るなら、小論文試験に求められるのは、次のようなことじゃないでしょうか。

(1)出題の意図を理解し、論理的かつ常識的な作文ができる(へんてこりんな文章を書かない)

(2)医師となる自覚と良心を感じさせる(こじつけでも、医学や医療や健康に関連する内容を盛り込む)

(3)うわべの論評ではなく、自分の経験談(苦悩した後に克服)などの、具体的なエピソードを挿入する

もちろん、経験談なんて創作でいいでしょう。なぜならこれは面接ではなく、小論文。つまり作文だからです。

持病を克服したとか、家族を介護したとか、持ちネタのある者だけが高く評価されたのでは、不公平です。

小論文は、自分の人間性や価値観をさらけ出す場であって、苦労経験のありなしを問うものではないはず。

自分を売り込むためなら、経験談を捏造することなど、うそも方便なのです。

・・・という答案では、どうでしょうか、杏林大学の方(ここまで794字)。

ミサイル発射前倒し

北朝鮮が、ミサイルの発射期間を1日前倒しすると通告したのが、昨日の話。で、前倒しするやいなや発射。

どのタイミングで発射するんだろうと思ってたら、期間の初日にいきなり発射とは、なかなかやってくれます。

周辺諸国の警戒態勢が整わないうちに、先手を打つ作戦なのでしょうか。

2月14日までの期間の中で、遅くなれば遅くなるほど、発射日が絞り込まれていくのを嫌ったのでしょうか。

できれば、誰も予測できないタイミングで発射をしたい、ということだったのでしょうか。

もしも2月13日までに発射しなかったら、その時点で、2月14日が発射日だとわかってしまいます。

つまり2月14日を発射日にはできません。となると、実質的な発射期間は2月13日までということになります。

しかしその場合、2月12日までに発射しなかったら、2月13日が発射日だとわかってしまいます。

だから2月13日の発射もダメ。となると、実質的な発射期間は2月12日までということになります。

しかしその場合、2月11日までに発射しなかったら、2月12日が発射日だとわかってしまいます。

だから2月12日の発射もダメ。以下同文。この理屈を繰り返せば、どの日にも発射できなくなります。

似たような話が、多湖輝の「頭の体操」に、あったような気がします。あれは死刑囚の話でしたか。

この論理展開にはもちろん、間違いがありますが、ともかく、今日の発射は誰も予測できませんでした。

でも考えてみると、今日発射するつもりでなければ、発射期間をたった1日前倒しする理由は、ないですよね。

読まないを読む

「『罪と罰』を読まない」という本が面白いという書評を読んで、思わずAmazonしてしまいました。

他人の評価がそのまま私の評価に一致するためしが、ときどきあるからです。著者は、三浦しをんら4人。

『罪と罰』を読んだことのなかった4人が、本を読まずに内容を推理して、ストーリーを作っていくという話。

まず、冒頭と結末の各1ページずつをとっかかりに、その間の数百ページに及ぶ長編文学を、予想し始めます。

ときどき、任意の1ページを読んで、それをヒントに推理を深めていくという、なんとも楽しげな試みです。

この本は『罪と罰』を読んだことのある人が読むと面白い、などと書評にありますが、私の考えは違います。

物語を知らない人間が読むからこそ、著者たち4人の輪に加わって「5人目」となることができるのです。

その意味で私は、学生時代にこの本を読むのを挫折していて良かったと、そう思いました。

「作家が『罪と罰』を読んでいないとは何事か!」などとお怒りの方も、世間にはいらっしゃるようです。

まあいいじゃないですか。『罪と罰』を読んでなくても、直木賞がとれるし『舟を編む』を書けるのです。

今日Amazonから届いたので、帰宅後にイッキ読みしました。

「『罪と罰』を読まない」を買ったけど読まない、という選択肢もあったのですが、我慢できませんでした。

この本の最終章は、いかに見当外れな推理をしていたのか、答合わせの座談会です。それがまた、楽しい。

とするとこの本は、『罪と罰』を読んだことがある人が読んだ方が、もっと面白かったのかもしれません。

驚いたら書く

テレビや本や新聞や雑誌やネットでも、診療中でさえ、毎日いろんな情報に接して、「ハ行」で驚きます。

「はぁ?」と疑問を感じながら驚く場合、「マジっすか!」でなければ、「んなアホな!」と続きます。

「ヒエ〜」70年代から80年代初頭まで流行った「まことちゃん」言葉による、わざとらしい大げさな驚き。

「ふ〜ん」どうでもいいけどね、的な。

「へぇ〜」中ぐらいのトリビアのとき。

「ほぉ〜」いいこと聞いた、覚えとこ。

このような驚きに触発されて、昔の体験を思い出したり、連想が飛躍したりして、当ブログの骨格ができます。

空想や妄想は、得意です。さいわい、古いことはよく覚えているので、こういう時は助かります。

あとは、いま驚いたばかりの新しい事柄をすぐに忘れてしまわないように、ちょっとメモしておけばOK。

いやホントに冗談抜きで、いま驚いたコトなのに、何に驚いたのかを忘れてしまう、そんな自分に驚きます。

「思い出すのをやめたとき、思い出すこともよくある話」でもなくて、ずっと、思い出せず仕舞いです。

たぶん、また別の日に、同じ情報に接して、また驚くのでしょう。

そんな驚きのメモが、たくさん溜まっています。旬を過ぎると驚きを失うので、ブログネタになりません。

見ても何も思い出せないメモですら、無数にあります。もう、何かに驚いたらすぐ、書くしかないのです。

検索地獄

「西部劇で風に吹かれてくるくる回って飛んでく藁のかたまりみたいなやつ、あれってなんていうんだっけ?」

このような書き出しで、芥川賞作家の藤野可織さんが、エッセイを書いていました。タイトルは「検索」。

日常のちょっとした疑問が、ネット検索によってすぐに解明できる便利さについて書いています。

たしかに誰もが、そのような事を感じていますが、検索後には検証が必須です。たとえば冒頭の疑問では、

「西部劇 藁」で「タンブル・ウィード」がわかったら、こんどは「タンブル・ウィード」で再検索。

藤野氏は、このような再検索をきっかけにして、興味を広げ、連想し、想像し、回想していったようです。

芥川賞作家のマネをするのも恐縮ですが、私も敢えて、「タンブル・ウィード」で検索してみました。

和名は「オカヒジキ」。葉が多肉質で「ヒジキ」に似ているからその名が付いたと。へぇ〜。

ヒジキを「鹿尾菜」と書くことにも驚きます。ヒジキの粒が、鹿の尾のように跳ね上がっているからだとか。

そういえばひところ、ヒジキに含まれる「ヒ素」が問題になりました。あれ、どうなったんでしょうね。

ていうか、ヒジキって真っ黒です。見た目には、ヒ素ではなくて、鉄分が多く含まれてる印象があります。

「ヒジキ なぜ黒い」で検索しようとしたら、その前に、なぜかドラえもんを思い出しました。

ドラえもんはたしか、何か理由があって青くなったのでした。「ドラえもん なぜ青い」で検索。2説あり。

(1)大泣きして振動し、黄色の塗装が剥がれた:塗装する前は青だった(だから、なぜ青?)。

(2)ネズミに耳をかじられたのを鏡で見て青ざめた:本来は黄色だった(じゃあ、なぜ黄色?)。

このように、私はしばしば<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-904.html" target="_blank" title="検索地獄">検索地獄</a>に陥り、肩と目と手首が疲れ、ついにMacと目を閉じることになります。

エンゼルパイ

NHKの「放送用語委員会」の報告を時々読みますが、真面目な委員会なのに(真面目だからこそ?)、面白い。

昨年10月の委員会で決定した事項のうち、興味がわいたものをいくつかあげると、

(1)従来の「エンゼル」を、「エンジェル」とする(一部「エンゼル」も認める)

(2)従来の「キャンデー」を、「キャンディー」とする(一部「キャンデー」も認める)

委員会では、「エンゼル」を認めるのは、慣用が定着している学術用語や固有名詞などとしており、例として、

「エンゼルフィッシュ(学術)」「エンゼルプラン(厚労省)」「エンゼルパイ(森永)」をあげています。

いやあ、委員のみなさん、「エンゼルパイ」をご存じでしたか。私、あれ、好きです。

「キャンディー」は、今では普通に使われていますが、あえて「キャンデー」と言うと、レトロな感じです。

場面によって使い分ける案が、委員会でも出たようですが、結局「キャンディー」が優先となりました。

子どもの頃、大好きだった森永チョコボールで、いちど「金のエンゼル」が出たことがあります。

1960年代後半ごろのことです。もちろん、「金のエンジェル」ではなく、「金のエンゼル」です。

「金のエンゼル」を森永に送ったら、「キョロちゃん」の容器に入ったスタンプセットが送られてきました。

私はそれを、「おもちゃのカンヅメ」だったと、今までずっと、思い込んでいました。

ところが今日、森永のサイトで確認してみたところ、それは「おもちゃのカンヅメ」ではなかったのです。

「おもちゃのカンヅメ」の前身の「キョロちゃんのまんがスタンプ」だったのです。半世紀ぶりに知りました。

さらにチョコボール黎明期には、「キョロちゃん」ではなく「チャッピー」がメインキャラクターだったとか。

「チャッピー」というのは、60年代のアニメ「宇宙少年ソラン」に登場していたリスです。ああ懐かしい。

しかし、当時のアニメで、私がソランよりもアトムよりも好きだったのが「遊星仮面」なのです。

ソランの提供は森永で、アトムの提供は明治製菓、遊星仮面はグリコ。そんな時代でした。

横井さん帰還から44年

グアム島で発見された、元日本兵の横井庄一さんが、日本に帰還したのは、44年前の2月2日。

テレビでそう言っていました。あれって真冬でしたっけ。横井さんの常夏な格好のイメージと、合いませんね。

今朝見たニュース映像の中で横井さんは、「恥ずかしいけれど、帰って参りました」と言っていました。

この言葉が、私の記憶する、横井さんの帰国第一声とは、少し異なることに疑問を感じました。

なぜなら、流行語にもなった横井さんの名言は、「恥ずかしながら、帰って参りました」だったからです。

たしかに、帰国会見の映像では、「恥ずかしながら、生きながらえておりました」と発言しています。

つまり第一声は「恥ずかしいけれど」だったのが、後に「恥ずかしながら」に変わったようです。

「恥ずかしいけれど」の方が、横井さん本来の、自然な言葉のように感じます。

それが何度も発言を求められるうちに、言葉が語呂の良い形に洗練され、固定していったのでしょう。

逆に私は診療中に、何度も何度も同じ事を言ってると、自分の言葉に違和感を感じてくることがあります。

ワンパターンの説明事項などを、いつもと同じようにしゃべっているような場合が、とくにそうです。

相手にとっては初めて聞く説明でも、私は何度も繰り返しているので、自分の中では、くどいのです。

だから用語や語尾を、毎回少しでも変えて、できるだけ違う言い回しにしたくなります。そして、噛みます。

私のサービス精神は、たいてい裏目に出ます。

インフル流行に突入

インフルエンザが、例年よりもだいぶ遅く、ついに流行期に入りました。

流行の状況を、客観的に評価・表現する基準となるのが、全国の定点医療機関からの患者報告数です。

インフルエンザについては、全国約5000カ所(熊本県内で80カ所)の医療機関が、定点に指定されています。

幸か不幸か当院は、その定点医療機関ではありません。

定点医療機関は、月曜から日曜までごとに、毎週のインフルエンザ患者数を報告することになっています。

それを都道府県や厚労省などが集計し、週単位で、定点当たりの平均患者報告数を発表します。

定点当たりの患者報告数が10以上になると「注意報レベル」、30になると「警報レベル」です。

本年第3週(1/18〜24)の、全国の定点あたり患者報告数は10.56でした。つまり、注意報レベル。

第1週から第3週までの報告数の推移は、2.02→4.11→10.56なので、まさに流行に突入したところ。

熊本県内に限定すると、定点当たりの報告数は、0.68→1.75→6.45と、全国よりは一週遅れの流行です。

しかし先週(第4週:1/25〜31)は、明らかに爆発的に、流行が始まったような実感があります。

この期間、当院でインフルエンザと診断した患者数は、57人でした。警報レベルをはるかに越えています。

さらに、今日の患者数から考えると、今週(第5週)は100人を越えそうな勢いです。

ワクチン接種者は今シーズン、諸事情により激減していますが、まだまだ流行はこれから。

今後2カ月程度は流行が続くと考えると、接種はまだ間に合います。当院のワクチンの在庫は、あと32本なり。