8月末になって着手し、最後は父が作り直し。私の<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-664.html" target="_blank" title="夏休みの宿題の工作">夏休みの宿題の工作</a>は、毎年そのパターンでした。
吊り橋の模型を作ったのは、小学校の高学年だったでしょうか。
全長30cm程度のいびつな物体ができあがりつつあるのを見て業を煮やした父が、竹ヒゴと角材を大量に購入してきました。一から作り直すというのです。もう夕方なのに。
翌朝、登校する私が両手に抱えていたものは、全長1メートルをゆうに超える、それはそれは立派な吊り橋でした。友達はみな賞賛のまなざしでしたが、担任の先生の、やや冷たい笑顔が忘れられません。
ある年は、投入した硬貨を自動選別するような箱形の貯金箱を作りましたが、これも父が作り直しです。当時の父は自作スピーカーに凝っていた頃で、その材料が余っていたのです。
完成した貯金箱の表面には木目をプリントしたシールがびっしりと貼られ、市販品ならB級な仕上がり。少なくとも、こどもの工作には似つかわしくない雰囲気に溢れていました。
中学時代には、壁にぶつかると自動的に逆方向に進む車を作りました。
アイデアは評価してくれた父でしたが、完成度にはまったく満足できなかったのでしょう。材料を買い込んできて、作業を始めてしまいました。
そしてできあがったのは、高専の生徒が作ったのかと見まごうばかりの、精巧な模型でした。恐る恐る学校に提出すると、技術の先生に本気で褒められてしまい、とまどいました。
そのような父の、凝り性で完璧主義の血を、私が受け継いでいなかったはずがありません。
しかしまた、子どもの宿題に親が介入しても、当の本人が必ずしも喜ばないことは、私自身がよく承知しています。なので私が子どもの工作の手伝いをしたことは、記憶にある限り一度だけかもしれません。
学校に持って行かせた金峰山の模型は、誰の目にも大人が作ったとしか見えない代物でした。子どももそこそこに喜んでくれたので、救われた気がしますが、私に気を遣ってくれたのかもしれません。
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保険医協会の新聞に投稿するつもりだった原稿ですが、締切に間に合わなかったのでここに掲載しました。