ちまき

「ちまき」の起源には諸説ありますが、こういった場合、私はいちばん古くて面白い説を支持します。

しかも詳細な尾ひれが付いた、見てきたようなストーリーが好きです。

以下、中国古代史に詳しくない(けれども興味はある)人向けの文章となっておりますので、ご了承下さい。

中国史で私がいちばん好きなのは、「<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-563.html" target="_blank" title="封神演義">封神演義</a>」に描かれた、殷とか周といった、少し怪しげな時代です。

歴史書は、次の時代に前の時代のことを書くので、前王朝最後の王は悪人か無能者として描かれるものです。

殷の「紂王」はその代表格であり、彼を討って周王朝を建てた「武王」は、正義の人ということになります。

その武王の軍師こそが「太公望」であり、彼は軍功によって一国を与えられ、東方に「斉」を建国します。

東の「斉」の他、南に「楚」、北は「晋」、西では「秦」が勢力を拡大し、各地で戦いが繰り広げられます。

周は実力を失って権威のみを有する小国となります。この頃が「春秋時代」。

諸侯はやがて、秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙の「戦国七雄」にまとまります。この頃が「戦国時代」。

紀元前なのに、こういった各国の勢力争いの詳細が、実に細かく記録されているのが、中国史の凄いところ。

戦国七雄のうち、西のはずれに位置する秦がどんどん勢力を強め、後に中国を統一するのはご存じの通り。

このとき楚は、秦と同盟するか(親秦派)、斉と同盟して秦に対抗するか(親斉派)で、国内が二分します。

しかし秦の策略によって、楚の王は親秦を選び、罠にはまった楚は弱体化し、結局滅びます。

親斉派のリーダー「屈原」は、この策略を察知していながら楚を救えず、ついに絶望して入水自殺します。

それが5月5日でした。

屈原は、楚の人々の信望を集めていた人物でした。

人々は、彼の遺体が魚に食べられないように、川に米をまきました。遺体よりも、この米を食べなさい、と。

以来毎年、5月5日の命日には、米を竹筒にいれて川に流すようになりました。霊を弔うためです。

ところが後の時代に、屈原の幽霊が出て、こう言ったそうです。

「せっかくの供物だが、いつも先に龍に食べられてしまう。龍が嫌う葉で包んで糸で縛ってほしい」