光よりはやいもの

「世界で一番はやいものは何と思う?」

ニュートリノではありません。世界中を騒がせた実験結果は結局、誤りでした。

思い出すのは、小学校時代の中村A君です。

彼がある日、冒頭の質問をしてきたのです。「世界一はやいものは何か」と。

私は即座に「光」と答えたのですが、彼はしたり顔で首を横に振り、「神経」と言い放ちました。

彼の説明によれば、右手で左手を触ったとき、その瞬間、左手がそれを感じているからだと。

「絶対違う」と、その時は思ったのですが、うまく反論できず、中村君は勝ち誇ったようにしていました。

私はどのように反論すべきだったのか。あれから40年以上、折に触れてそのことを考えてしまいます。

人間の神経を刺激が伝わるスピードは、毎秒1~100メートルだから、というのはダメです。

小学生にもわかるように説明しなければなりません。

右手で左手を「触ったとき」と、左手がそれを「感じたとき」の両者を、よく吟味してみます。

「触ったとき」というのは、左右の手の接触を目でとらえ、それが神経によって脳に伝わった時です。

「感じたとき」というのは、左右の手の接触を手で知覚し、それが神経によって脳に伝わった時です。

両者が同時であっても、それは、目から脳までの神経の伝達時間と手から脳までの神経の伝達時間が同じ、ということにしかなりません。

ああ、そう言えばよかったのか。

そもそも前者では、接触の様子が、光によって手から目まで伝わる時間が無視されています。

その時間が無視できるほど光ははやい、という前提がすでにあるわけです。

本当のツッコミどころはそっちなのかもしれません。

ユーザインタフェース

現代人は字を書かない。

海外のあるアンケート調査によると、成人は、最後に字を書いた日から平均41日経っているそうです。

そこまでですか、と驚きながらも、私自身、あまり字を書かなくなっていることは確かです。

その結果起きたことは、

(1)漢字を忘れた

(2)字を書くのが下手になった

どちらも「前からじゃないの?」とつっこまれそうですが、漢字ってホント、書かないと忘れますね。

字を書かなくなるどころか、将来のユーザインタフェース(UI)は、音声中心になるかもしれません。

iPhoneのSiriに限らず、各社のスマホが競って音声UIを取り入れ始めています。

人前で機械に話しかけるのは、まだちょっと恥ずかしいですが、やがて当たり前になるのでしょうかね。

スマホはおろかパソコンでも、タッチやタイプやクリック操作を必要としない時代が来るかもしれません。

たまにタイプやクリックをしようものなら、

(1)キー配列を忘れた

(2)ダブルクリックが下手になった

という事態にもなりかねません。

Microsoftはさらにその先の、ジェスチャーも併用したUIを開発中です。

(いま柳家金語楼を思い出した人は50歳以上です)

パソコンや家電の前で身振り手振りですか。いよいよ恥ずかしい。

このUIを東京証券取引所が取り入れたら、ある意味、昔の取引のような光景になるかもしれません。

脳波UIの研究も進んでいるそうです。将来は、思い浮かべるだけで、何でもできてしまうでしょう。

雑念の多い人は大変なことになりそうです。

地図情報

昭文社がおととい、iPhone向けの本格的なカーナビアプリを発売しました。

日本の道路地図において、昭文社に勝るものはないでしょうから、かなり使えそうです。

ゼンリンは、本業は住宅地図ですが、iPhoneやiPad用のナビアプリをすでにつくっています。

ただしモバイル用では、個人宅名までは出ないようです。それが表示されたら宅配業等ですごく便利なのに。

Appleは近年、地図会社を次々と買収し、次期iOS向けにすごい地図を作っています。

Googleに対抗するためには、Google Mapと決別しなければならないからでしょう。

Appleファンとしては期待してますが、本心では、Google Map以上のものを作れるかどうか不安です。

とくに日本版の地図が、データ不足のためガッカリなものになりはしないかと、今のうちから案じています。

一方でGoogleは、Street Viewや3Dを駆使して、地図機能をますます進化させようとしています。

Microsoftもまた、やたらに鮮明な航空写真で、全世界を網羅する計画を進めているとのことです。

世界中のIT企業が、精力的に地図情報を収集しています。

モバイル機器の最重要機能は、通話・メールの次は地図なのかもしれません。

かつて私は、学会等で上京したときなど、ポケットにはいつもミニサイズの地図をしのばせていました。

新宿や池袋で迷ったときは、かげでコソコソ地図を見てました。

今はいいですね。スマホでMapを堂々と見られる。

Appleは資金があるのなら、日本の地図会社も買収してくれませんかね。ゼンリンでも昭文社でも。

昭文社の地図にはもともとリンゴのマークが付いてて、名前もマップル。これを買収しなくてどうしますか。

旧友来たる

タクシーの中で、これを書いています。

旧友が突然、来熊したとの連絡をよこしてきたので、診療を終えるやいなや、街に向かっているのです。

中学時代の同級生。会うのは何十年ぶりだろう。

積もる話も積もり過ぎて、どんな話になるのやら。

それにしてもタクシーは揺れますね。

長文をiPhoneで入力するのは無理がある。ミスタッチばかりで、なかなか筆が進みません。

それでも、ブログの連続記録を中断したくないので書いてます。

本末転倒です。はい。

あ~、ちょっと車酔いしてきたかも。

明日はちゃんと書きますので・・・

(帰宅後の追記)

旧友とは、中学校の同級生で生徒会長だった門田君。

まあそれにしても、中学時代の同級生ともなると、みんな職業がバラバラで、とにかく話題が多いです。

私はずっと山口を離れていたので、聞く話すべてが新鮮、あるいは驚愕。

そして、女子の話。彼女らも、みんな同い年。ある意味ショックです。

国会中継

消費増税法案が、本日衆議院本会議で可決されました。

休診日だったので、NHKの生中継をず~っと見ていました。

採決に先立って、各党派の代表者7名による討論が行われました。

共産・民主・きづな・自民・社民・公明・みんな、の順に、いってみれば「消化」演説のようなもの。

いまさらどうなるものでもないし、早く採決したらどうなの?って感じです。

それでも少し面白かったのは、自民党と公明党が、めいっぱい民主党を批判したところでしょうか。

「法案には賛成するが、民主党には賛同できない」ということでしょう。

それから、最後の演者、渡辺喜美氏の反対討論は、なかなか迫力があって良かった。

こういう演説は聞いてて面白いですが、残念なことに、採決の結果には影響なし。

さて、渡辺氏が演壇から降りたと思ったら、いきなり採決に移りました。休憩無しです。

いやあ、議員の先生方、おトイレは大丈夫なのか。ていうか、見ている私もトイレに行けずじまい。

まず、いくつかの法案については「起立による採決」を行う旨が、議長より告げられました。

そして明らかに、大多数の議員が起立しました。これは一目瞭然。

もしも微妙な数だったら、起立者数をどうやって数えるのか心配していましたが、杞憂に終わりました。

議長は会場には一瞥もくれず「起立多数」と宣言。さすがです。起立音だけでわかるのでしょう。

続いて、重要法案3つの表決に移りました。こんどは記名投票です。

議長が「議場閉鎖」を宣言。ちょっと緊張してきます。

記名投票というのは、あらかじめ名前の書いてあるフダを自分で前まで持って行くという、例のやり方です。

賛成なら「白票」、反対なら「青票」を投じます。青票といっても色は緑ですが、それはまあいいでしょう。

1法案ごとに、約460人の議員が、名前を呼ばれてゾロゾロと、時計回りに登壇し、フダを手渡して降壇。

係員がフダを集計し、数を報告し、賛成多数により議長が可決を宣言。これを3法案分、3回繰り返し。

まあそれにしても時間がかかる。参議院のような押しボタン式にしてもよいのでは?

ワクチンと副作用

予防接種に対して慎重または懐疑的になっている方の、いちばんの心配事はワクチンの副作用です。

よく「副反応」という用語を使いますが、そんな言い換えをするからかえって、ごまかしを感じさせるのです。

ワクチンも薬ですから、他の医薬品と同様に、副作用を起こす可能性はあります。

ただし、病気を治すための薬ではないので、次の2点で問題になります。

(1)健常人に対して接種する。

(2)接種しなくても、必ずしも健康上の不利益を被るわけではない。

接種後に重大な副作用が起きたときに「接種しなければ良かった」と悔やむのは、(1)のためでしょう。その感情は理解できます。

問題は(2)です。

接種せずに病気にかかるリスクと、接種して副作用を被るリスクを、天秤にかける人が多いのです。

そもそも予防接種が成立しているのは、接種するメリットの方が大きいからです。議論の余地はないはず。

なのになぜ、天秤にかけるのか。

それは、定期接種と任意接種が混在することが原因ではないかと、私は思います。すなわち、

国が法律で規定している定期接種は、必要性と安全性に「国のお墨付き」がある。

一方で任意接種は、優先順位が低いか、何か理由があるから定期接種にはなっていない。

必要性も安全性も定期接種には劣るのではないか。

現行の制度では、このような印象を与えているような気がしてなりません。

だから任意接種ワクチンは、それがたとえ無料化されても、接種率がなかなか上がらないのです。

水痘やおたふくかぜのワクチンのように、有料のものであれば、なおさらです。

こども対象のワクチンは、全部、さっさと<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-23.html" target="_blank" title="定期接種化">定期接種化</a>してもらいたい。

アリとキリギリス

少し前に産経新聞のコラムが、「アリとキリギリス」の話をとり上げていました。

このイソップ物語の結末が、原典と日本語版で異なるというのです。

夏の間遊びほうけていたキリギリスが、冬になってアリに助けを求めたとき、アリはどうしたか。

原典では、キリギリスを助けないのに、日本語版では、アリはキリギリスを助けます。

私がこどもの頃に読んだ本も、そんな結末でした。

ところがそれは、高度成長期の話とのこと。最近では、日本語版でもキリギリスを助けないそうです。

日本人の気質が変わってきたのでしょうか。

このコラムを読んで「情けは人のためならず」ということわざを思い出しました。

原義は「情けをかければ、いつか自分にも返ってくる」という、温情ある考え方。

しかし「情けをかけたら、その人のためにはならない」という、厳しい解釈が最近広がっているそうです。

もちろん後者は誤りですが、文化庁の調査では、後者で理解している日本人の方がむしろ多いとのこと。

古き良き日本人の気質が失われつつあるのか、余裕がなくなってギスギスしてきたのか。

そう思えば私自身も、もっと寛大にならなければと、反省してばかりの毎日です。

イソップ物語でいうなら、北風よりも太陽でありたい。

そば湯

そば湯ってありますね。私はあれが苦手です。

飲み方の流儀さえも、つい最近までわかっていなかったぐらいです。

こどもの頃にも学生時代にも、そば屋さんに行く機会があまりありませんでした。

なので大人になって1人でそば屋に行って、初めてそば湯を出されたとき、途方に暮れました。

「そば湯はいかがしますか?」多分そんな風に尋ねられ、「あ、お願いします」とでも応えたのでしょう。

注ぎ口の付いた容器に入れられて、その「そば湯」なるものがテーブルに届きました。

「熱いので気をつけて下さい」と注意点が告げられたので、それが熱いものであることはわかりました。

しかしいつまで待っても、その熱いものを注ぐべき湯飲みや皿の類が出てこない。

それとなく周囲の客を見回しても、参考になる光景なし。ヘンなことして恥をかきたくはない。

君子危うきに近寄らず。結局、そば湯には手を付けずに退席。

「そば湯は・・・」と追いすがる店員に、「あ、急用を思い出したので」と慌てて立ち去る私。

それ以来長い間、そば屋に行けば必ず最後には、急用を思い出してそそくさと退店するという人生でした。

インターネットの時代になり、そば屋における作法全般については、だいたい調べがつきました。

となれば、実践あるのみ。最近ついに、某店でそば湯を飲んでみました。

栄養豊富だそうです。名店のそば湯は本当においしいという話も聞きます。

ただまあなんといいますか、我慢して飲むものでもないし。そばつゆの塩分も気になるし。

五十にして論語

「論語なう」という本(牧野武文著)を、立ち読みしていたら止まらなくなったので、買いました。

論語とは、孔子と弟子たちの問答などを記録したものであり、孔子の教えはやがて儒教となります。

古代中国史が好きな私ですが、論語だけはどうも、昔から毛嫌いしていました。

しかし、今日あらためて読んでみると、むしろ現代人にこそ必要な「教え」がそこにありました。

この本の面白さは、極端に平易な、ツイッター風の「なう語訳」で、論語を訳してあることです。

もともとは、著者がツイッターに投稿して反響を呼んだ内容だそうです。

例をあげてみます。

(原文)子曰く、巧言令色、鮮(すくな)し仁。

(訳文)弁舌さわやかで、いつもにこにこスマイル。こういうやつって、なんかうさんくさいよね。

こんな感じで、100ぐらいの「論語」が「なう語訳」され、それに簡潔で真面目な解説が付いています。

かつて古典の解説書や訳本といえば、学者や作家が書いた、いかにも堅苦しい教科書的なものでした。

ところが、ブログなどネット上の個人レベルの著作活動が活発になって、様相が変わってきました。

個人が好きなことを、自由に「研究発表」し、さらには「私製教科書」まで作るようになりました。

学術的な信用度には問題が残りますが、好きで楽しく書いているので、読んでいて面白いものが多いです。

教育現場でも、こういったネット素材を副読本として、どんどん利用すればよいと思います。

現に私は「論語なう」を読んで、論語を少し勉強してみたい気持ちになりました。

五十にして天命を知る。(やっぱりちょっと大げさかな)

因果関係と補償

麻しんワクチン接種の3日後に、1歳の男児が急性髄膜脳炎で死亡したことがあります。

補償をめぐって訴訟となり、昨年高松高裁が下した判決が、波紋を呼びました。

医学的には、生ワクチンによる髄膜脳炎がそのように早い時期に発症することは、考えにくいことです。

しかし裁判所は、「因果関係は否定も肯定もできない」という専門家の意見をふまえ、

「死亡原因がほかに見当たらないので、予防接種と死亡には因果関係を認める」

という、医学界には多少驚きを与える判断を下しました。

つまり「疑わしきは被害者の利益に」という結論です。

ワクチンという「被告人」にしてみれば、「疑わしきは有罪」にされてしまったわけです。

今回の司法判断が一人歩きして、医療機関の風評被害やMRワクチン接種率の低下につながりはしないかと、心配になります。

このようなことになってしまう背景には、日本のワクチン被害救済制度の問題があります。

因果関係がなければ補償が認められません。

補償のために因果関係をこじつけるようになれば、ワクチンの危険性を過大評価することにもつながります。

因果関係の立証はあくまで科学的かつ厳正に行うべきで、被害者の補償はそれとは別の問題です。

米国のような、ワクチン接種後に生じた健康被害に対して、因果関係の有無にかかわらず補償を行う制度が必要です。