金環日食

熊本では部分日食でしたが、それすらも、天気が悪くて見えませんでした。がっかりです。

ところで、今回の金環日食を機に再認識した、いくつかの科学的事実があります。

「大きさがまったく異なる天体なのに、太陽と月は地球からの見かけの大きさがほぼ同じ」

偶然にも、太陽と月の距離の比率と直径の比率がだいたい同じということです。

だから皆既日食もあれば金環日食も楽しめる。

でも太陽はやがて赤色巨星となって膨張するので、その後は金環日食ばかりですね。

「月食は満月の夜に、日食は新月の昼に起きる」

残念ながら、半月とか三日月は月食にはなりません。なったら形が面白そうなんだけど。

「新月は、目に見えないだけで、毎月空には昇っている」

たまたまその後ろを太陽が通過したときに、影となった新月が見え、人はそれを日食という。

つまりわれわれは日食のとき、突如出現した新月に驚いているようなものです。

だから、日食の主役って、月なのでは?

そこで、その主役である、日食時に見える黒い月のことを「影月」と命名してみました。

念のため調べたら、月食のとき、月が地球の半影に入った状態を「半影月食」というらしく、この4文字の中に「影月」が含まれています。

まぎらわしいので「影月」はやめて、「陰月」でどうか。

と思ったら、これは旧暦4月の異称とのこと。じゃあ「暗月」ではどうだ。

調べたらこれ、新月と同じ意味でした。だから日食時の月の呼び名としても、うってつけかも。

日食と邪馬台国

金環日食を前に、期待が高まっています。

古代の人たちはこのような現象を、どう思って見ていたのでしょう。

もしも皆既日食だったら、もはや天変地異以外の何ものでもなかったでしょう。

きっと、後世まで伝えられていくはずです。

天照大神(あまてらすおおみかみ)の「岩戸隠れ伝説」が、まさにそれではないかという考え方があります。

天照大神が天岩戸に隠れると世の中は暗黒になり、再び外に出たら世界が明るくなった、というのが古事記や日本書紀にかかれた有名な伝説です。

伝説には元となった史実がある、と考えると、この話が皆既日食を表している可能性があるのです。

古代の日本では、西暦247年と248年に北部九州で皆既日食が起きたことが、天文学的に裏付けられています。

ところが魏志倭人伝によると、邪馬台国の女王卑弥呼が死んだのが、西暦247年または248年とされているので話が面白くなります。

ここに「天照大神=卑弥呼」説が浮上し、さらに「邪馬台国九州説」が有力となるわけです。

魏志倭人伝の解釈や日食の計算には異論もあるようですが、九州人としては、この説を推したい。

それを確認すべく、インターネットで過去の日食の正確なデータを調べてみました。

北海道大学のサイトで、過去5000年間の日食情報をすべて表示してくれるページを見つけました。

調べたい年代を入力すれば、日食が見られたエリアや時間帯が詳細に表示されます。

247年と248年の日食を見てみると・・・なんと、皆既日食エリアが九州とは微妙にずれている!

調べなきゃよかった。

断捨離

「不要なモノを断ち、不要なモノを捨て、モノへの執着から離れる」いわゆる「断捨離」

「とりあえず何でもとっておこう」という私の信条とは真逆の発想です。

しかしそう言う私も、「きれいに片付いた状態」は好きです。

なので「とりあえず何でもとっておき、なおかつ整然と保管」したいものです。

そのためには、すべての持ち物をきちんと収納できるスペースさえあればよいわけです。

広い納戸に収納力のあるラックを配置して、捨てられないモノを一望できるように保管するのが理想。

しかしそんなことは無理なので、時々片付けをしなければなりません。

大がかりな片付けを試みたことなぞ、これまでに数知れずもあります。

ちょうど、タバコをやめられない人が「禁煙は何度もしたことがあります」と言うのと同様に。

片付けを決意したとき、私はまず、片付けやすい環境を整えます。

まずは、ファイル、キャビネット、棚などの、整理関連物品を購入するわけです。

「たった1分で人生がかわる 片付けの習慣」という本も購入して、整理法を研究したものです。

その結果どうなったかは、ご想像の通り。

その本も含め、捨てられないモノがまた増えました。

すきま時間とクラウド

プレッシャーになるので触れたくなかったのですが、現在、ブログの連続投稿記録を更新中です。

「いったい、いつ書いているんですか」と最近尋ねられました。これは

「いったい、いつそんな時間があるのですか」という疑問文に置き換えることもでき、さらに

「意外と暇なんですね」「他にすることないのですか」という風にも聞こえてきます。

違うのです。「すきま時間」と「クラウド」を使っているのです。

ブログのアイデアは、随時ムクムク湧いてきます。そして片っ端から忘れます。

どうかすると、思いつくよりも忘れる方が多いぐらいです。なのでメモは必須です。

早朝、出かける前、仕事中、昼休み、帰宅後、夕食中、テレビみながら、寝る前・・・

どの時間帯であっても、思いついたことはすぐに書き留めます。

あとでまとまった時間のあるときに、それらをつなげて文章にします。

したがって、メモ帳は、

(1)いつも手元にあって、すぐ使えること。

(2)紛失・散逸・置き忘れしないこと。

(3)メモの内容を、あとで原稿ファイルに転記する必要が無いこと。

紙のメモ帳やノートでは、これらを満たすことはできません。

とくに(3)の要件を満たすものはただひとつ、「原稿ファイルそのもの」です。

つまり、ひとつの原稿ファイルをクラウド上に置き、自分がどこにいても、常にそのファイルにアクセスして、メモを書き込んだり、文章を加筆修正できるようにしているわけです。

すきま時間という「時間的アイテム」と、クラウドという「空間的アイテム」は、とても相性がいいです。

ポンプ

心臓を手術するとき、その術式の内容によっては、一時的に心臓を止める必要があります。

しかし心停止の間も、脳などの主要臓器への血液循環は維持しなければなりません。

そのため、特殊な器械を血管に接続して、人工的な体外循環を行います。

この装置のことを、人工心肺といいます。その中心的役割は、

(1)心臓の役割:血液を循環させる(ポンプ)

(2)肺の役割:血液に酸素を供給する

人工心肺を稼働させることを現場では「ポンプを回す」と言ったりします。

「ポンプの準備はいいか」とか「急いでポンプ回すぞ」などは、心臓手術の現場でよく飛び交う言葉です。

大学の心臓外科医局にいた頃、この装置の監視担当医を「ポンプ係」と呼んでいました。

私も月に数回程度、ポンプ係の順番が回ってきました。

我が家のスケジュールボードには、ポンプ係の日のところに「P」の印を付けていました。

家人はそれが「ポンプ係」の日であることを知ってはいたものの、そもそも「ポンプ」とはどんなものなのか、その形態をイメージできないままの年月を過ごしていたようです。

私が不在の時、訪れてきた客人はたいてい、このボードを見て「P」印の意味を尋ねたそうです。

それに対して家人は「ポンプ係らしい」とだけ答え、客人もまた「ふぅん」と納得して、それ以上は聞かなかったとのこと。

はたして客人たちは、訪問先の旦那の仕事内容を納得して帰宅したのでしょうか。

井戸水をくみ上げる緑色の手押しポンプを想像したのではあるまいか。

あとでこの話を聞いて、客人らに補足説明をして回りたくなったものです。

エヴァンジェリスト

スマートデバイスを、どのようにしてビジネスに生かすか。

そのような趣旨の講演会に、昨日参加しました。題して「iPhone・iPadビジネス活用セミナー」

演者の中山五輪男氏は、Apple認定の「シニアエヴァンジェリスト」だそうです。

この肩書きを許されているのは、日本で2人だけ。もう1人は孫正義氏とのこと。

思えば昔から、Macはエヴァンジェリスト(伝道師)によって支えられてきました。

Appleが90年代を生き延びたのは、Mac信奉者による布教活動のおかげといってもいいでしょう。

たぶん私もその一人でした。エヴァンジェリストといっても、特別な人間ではないのです。

「Macは面白いよ」「楽しいよ」という思いを伝えるのが、その役目です。見返りは求めません。

しかしそれは結果的に、Apple社が倒産しないための、営業活動でもあったのかもしれません。

iMacの成功以降も、エヴァンジェリストは活動を続けています。

「Apple=Mac」の時代はとっくの昔に終わり、Mac教はApple教へと拡大しました。

だから私もApple教の信者なのですが、宗派は何かと問われれば、正統派「マッキントッ宗」です。

iPhoneやiPadから入信した、「スマートデバイ宗」の門徒とは一線を画したい。

推敲

「推敲」は、故事成語の中でもあまりにも有名な言葉です。

「僧は推す月下の門」か「僧は敲く月下の門」かで悩んでいて、行列に突っ込んでしまった詩人。

「推す」よりも「敲く」の方が良いとのアドバイスを受けて、そちらを採用した、という話。

「敲く」の方が良い理由は、月下に音を響かせる風情がある、ということだったとされています。

しかし私は、「推」と「敲」を発音したときの音の違いは、選択基準にならなかったのだろうか、と思うのです。

韻文ではしばしば、その発音が重要視されるからです。

実際、私がブログ原稿を推敲するとき、内容以外に発音と外観にも、ちょっとこだわります。

(1)内容の推敲

内容を推敲するのは当たり前なので、詳細は省きます。

(2)発音の推敲。

前述の文で、「内容を推敲するのは当たり前なので、詳細は省略します。」とはしたくないです。

「詳」と「省」がどちらも「しょう」なので、読んでいて「くどい」からです。

同じ単語を繰り返さず、できるだけ同義語に置き換えるのは、推敲の基本だと思いますが、そうする理由も同じ。読んでいて「くどい」からだと思うのです。

(3)外観の推敲

長い文は、あまり好きではありません。パソコン画面で見て、美しくないからです。

行頭に同じ漢字が続くのも避けたい。

一行の文字数をぴったり揃えて長い文章を書いてみるとか、横書きの文章の行頭文字をつなげて縦に読んでみるとひとつの文になるとか、そんな実験的なブログも、いつか書いてみたいです。

読売新聞

先日書いた、<a href="http://tsuruhara9linic.blog116.fc2.com/blog-entry-218.html" target="_blank" title="新聞の看板コラム">新聞の看板コラム</a>。昨日までは、全国紙5紙すべて、ネットで読むのは無料でした。

ところが本日から突然、読売のコラム「編集手帳」だけが、タダでは読めなくなりました。

ネットでコラムを読むためには、読売新聞の定期購読が必要条件になった、というのです。

ひどい話です。

コラムを1編読むたびに100円払え、というのにも等しい仕打ちです。

社説の長文はタダで読ませてくれるのに、短いコラムをケチってどうする、読売新聞。

だいたい、それまで無料で提供していたサービスを、いきなり有料にするとは、いかがなものか。

そこで、対抗措置として、私はどうしたかというと・・・

読売新聞の定期購読を契約してしまいました。

皆様の叱責は甘んじて受けましょう。

まさに読売の思うつぼ。私は読売の軍門に下ったのです。

読売の購読と引き替えに、熊日を解約しました。熊日さん、申し訳ないです。

日経は残してます。コレははずせません。

今回の一件で、熊日が読めなくなった家族の反応はどうだったかというと、

「コボちゃんが読めるから良かった」

ニュース原稿

「政治生命を懸けるといった言葉に掛け値はない」という野田首相の発言をTVで聞いていた途中、

「政治生命を懸けるといった・・・つもりはない」と続くような気がして、一瞬、驚きました。

何かを聞くときは、それを原則として聞いた順に理解していきます。

内容の理解を助けるために、想像力をたくましくして、展開を先読みしながら聞くこともしばしばあります。

だいぶ前に、通勤中に聞いていたNHKニュースの冒頭で「肝生検」と言い始めたので、なぬっ?と思わず聞き耳を立てたら「菅政権」の話でした。

この早トチリで動揺した私は、そのニュースの流れに乗り遅れてしまいました。

しかし、私に言わせれば、これは「原稿が悪い」のです。

ラジオならなおさらですが、たとえTVニュースであっても、原稿は独立したもの。聞いただけで容易に理解できる文章でなければなりません。

とくにその冒頭部は、ニュースのカテゴリーや概略を把握しやすいような文であるべきです。

同音異義語のある言葉を文頭に持ってくるなど、論外です。

「カンセイケン」と聞いた瞬間、

「菅政権」と認識した人なら、政治のニュースを聞く耳で臨むことができます。ところが

「肝生検」を連想した私は、医学・医療系の話題と思い、身構えてしまったのです。さらに

「管制圏」に聞こえて、なぬっ、と身を乗り出した人もいるかもしれません。管制官とか。

家電量販店

ビックカメラがコジマを買収しました。

私の行きつけは、デオデオかベスト電器、たまにヤマダ電機なので、今回の「ビック」ニュースにも、いまひとつ「ピント」きませんでした。

そもそもビックカメラは、熊本に店舗がありません。都市部を中心とした展開なのです。

上京したときにはよく行きますが、ゴチャゴチャした店だなあ、というのが田舎者の印象です。

なぜ「ビッグ」ではなく「ビック」なのか。

人々を「ビックリ」させたい、というのがその理由・・・というのはウソです。

答はネット検索すればすぐわかるので、ここには書きません(不親切)。

コジマは近所にあります。たまに行きます。

そこは何年か前までは、「ビッグウェイ」という店でしたが、今はコジマとアウトレット家具店が同居しています。

私がたまに行くのは、おもに家具店の方です。

立体構造がへんてこりんな店舗なので、勝手ながら、オモチャ屋さんにしたら面白いのに、と思います。

この店は、いずれビックカメラになる道をたどるのでしょう。(ビックウェイ)

今日はこのへんで。