看板コラム

新聞には、第一面の下の方にコラムがあります。いわゆる「看板コラム」です。

その時々の話題を、決められた文字数で、どのように「料理」するのか。

それが気になって、各紙のコラムには毎朝必ず目を通します。

天声人語(朝日)、編集手帳(読売)、余録(毎日)、春秋(日経)、産経抄(産経)の5つです。

断っておきますが、文章のお手本としてこれらを無条件に評価しているわけではありません。

良い文章だと思うときもありますが、他山の石とする場合も多々あるからです。

なかでも一番鼻につくのが「前ふり」

冒頭から本題につなげるまでの、得てして文学的な装いの、無駄に長い文章。

アレはいかがなものか。どうかすると、半分以上が前ふりのこともあります。

たとえば、少し前になりますが、4月13日付の朝日と読売。

両紙とも、京都祇園で起きた悲惨なひき逃げ事件をとりあげていましたが、前ふりが同じ。

どちらも与謝野晶子の京都祇園の桜を詠んだ一首から始まり、桜や花見客について述べた後、

「そんな昼下がり、満開の桜の下の、凍り付くような暗転である。」(朝日)

「惨劇が待ち受けていることを誰が予測したろう」(読売)

と展開。加害者の微妙な持病についてはサラッと流し、最後は交通安全でしめくくる。

まるでそっくりなコラムになってしまいました。

とくに前ふりの「かぶり方」は、コラムニストにとっては致命的。大失態と言えるでしょう。

難を逃れたのは他の3紙。それぞれ北朝鮮(毎日・産経)と就活(日経)を題材にしていました。

その3紙が「祇園の事故」をとりあげなかった理由は、だいたい推測できます。

それを書いたら、どうしても与謝野晶子を前ふりにしたくなる。しかしそれでは他紙とかぶるリスクがある。

リスクを回避すべく他の話題にしたのが3紙。リスクを承知でチャレンジしたのが2紙。

大きなイベントや事件があった翌朝は、このような観点で新聞を楽しんでいます。